シュメール Sumer 古代バビロニアの地名

シュメール Sumer 古代バビロニア沖積平野の中・南部をさす地名。正しくはヰumer。現代のイラク南部の 2 行政区,ディーワーニーヤ D ̄w´n ̄ya,ナーシリーヤ N´oir ̄ya にほぼ相当する。この地は前 3 千年紀末には,KI.EN.GI (‐RA) と書かれ,シュメルと読まれたらしい。シュメールはまた,この地で発達した世界最古の都市文明や,この文明の創始・発展に決定的に貢献した民族や,その言語の名をも示す。 [定住――ウバイド期]  この地はティグリス,ユーフラテス両大河の運ぶ肥沃な沈泥 (シルト) によってつくられた沖積平野の中・下流地帯の低湿地で,アシの生い茂る沼沢や鹹湖があり,陸地の大部分は春に草の生えるだけの荒地であった。気候は前 6000 〜前 5000 年ころも現在とほぼ似た半乾燥・亜熱帯状態にあった。この地への人類の居住は,沼沢地の魚,水鳥,ナツメヤシ,野猪に頼る狩猟・採集民によって始まったと考えられるが,前 5000 年ごろ (前 3 千年紀半ばまでの年代はなお推測的),最南部のエリドゥの小神殿 (1 辺 3m) に初めて定住の痕跡を残したのは,人工灌漑技術を伴う穀物 (大麦,エンマ小麦,小麦),果樹 (ナツメヤシ) の栽培者であった。これがウバイド期 (前 5000 ころ‐前 3800 ころ) 初期で,ウバイド期は金石併用期に属し,一般に小集落が主であるが,末期には一部の集落が早くも町邑的規模に達し,エリドゥには基壇上に立つ縦 23.5m,横 13.5mの壮麗な鮭瓦造の神殿が造られた。ウバイド期住民と歴史時代のシュメール人との関係は明確でないが,彼らを原シュメール人と考える学者もいる。この期中に沖積平野の中・南部の優位が確立し,シュメールの地が発展の先頭に立つことになる。 [都市形成期]  次の考古学的時期であるウルク期 (前 3800‐前 3000 ころ?) には轆轤 (ろくろ) 製の無文土器と円筒印章の製作が始まり,末期 (ウルクVIII〜IV層) にはウルクを先頭にシュメール南部に都市形成の動きがおこり, ウルクは面積約 100haに達し,大神殿がいくつも造営され (最大は縦 80m,横 30m),青銅器が製作され,IV層ではついに粘土板に刻まれた絵文字群が出現する。そこには支配者をさす称号〈エン〉,人々の集りをさす〈ウ (ン) キン〉,役職や手工業職種を示す文字,シンボルによる神名,牛・ロバ・羊・ヤギ・大麦・ナツメヤシ・犂 (すき)・魚類を示す文字などが,複雑な数体系を暗示する数字とともに書かれていた。 シュメール語を話す人々をおもな担い手とする最初の都市文明が,ここに圧倒的なエネルギーを伴って出現した。ウルクとほぼ同じ頃,エリドゥ,ウル,ギルス,ラガシュ,ウンマなども都市的規模に達した。 ジャムダット・ナスル期 (前 3000 ころ?‐前 2800 ころ?) にはシュルッパク,ニップール,キシュ,エシュヌンナが都市的規模に発展し,また文字の表音文字としての使用法が現れ,絵文字が写す言語がシュメール語であることが確認される。 [初期王朝期――都市国家時代]  シュメールは前 3 千年紀初めから初期王朝期と呼ばれる時代 (前 2800 ころ?‐2350 ころ。 I〜III期に区分) に入る。この時期にはシュメールでは前代からの都市のほか,アダブ,バド・ティビラ,ラルサ,ザバラムなどの都市が登場し,北に接するアッカド地方にもキシュのほか,シッパル,アクシャクなどセム人の影響の強い都市国家が出現した。なかでもキシュはこの時期のI期から最も重要な都市国家の一つとなり, 〈シュメール王名表〉と呼ばれる伝承においても, 〈洪水後〉最初に覇権を確立した王朝とされており,セム人の,この時期における軍国的都市国家時代の形成に演じた役割は無視できない。なおシュメールの歴史における第 3 の人種要素として, フルリ人と関係のあるスバル人Subareansの存在を指摘する学者もいる。初期王朝期には王を指す称号ルガル lugal (字義は〈大きい人〉) がI期より (〈ウル古拙文書〉),支配者をさす別の称号としてのエンシ ensi (語源はなお不確定) がIII期に現れ,社会組織がいっそう凝縮的となるとともに,都市国家間の同盟と戦争が繰り返されることとなった。  考古学的にはこの時期の開始は底平上凸 (プラノ・コンベックス plano‐convex) 鮭瓦の使用によって確証されるが,歴史的にはI期 (前 2800 ころ?〜前 27 世紀) は過渡期で,キシュの覇権とシュメール諸都市の都市同盟の時代であった。 I期中にウルク市の面積が 400haに達したという。 II期 (前 27 世紀〜前 26 世紀) には,伝承においてキシュ第 1 王朝の最後から 2 番目の支配者とされる (エン) メバラゲシの銘文が出土しており,その子アガおよび彼らと戦ったという別の伝承をもつ,後の大英雄叙事詩 (《ギルガメシュ叙事詩》) の主人公,ウルクの王ギルガメシュの史的実在性も確実視される。 〈王名表〉でキシュに続いて全土を支配したとされるウルクの諸王には,ほかにも何人か英雄伝説を有する者がいる。ウルクには全長 9kmの城壁が建設された。 III期 (前 26 世紀‐前 2350 ころ) になると,有名なウルの王墓が造られ,そのすぐ後にウルのメスアンネパダやラガシュのエアンナトゥムなどの新興の支配者たちが一時的に覇権を掌握するが,都市国家間の戦争が常態となる。このIII期に初めてシュメール,アッカド全体が一つの政治舞台となり,対エラム防衛の戦略上の拠点ギルス・ラガシュ複合都市国家に,エアンナトゥムを第 3 代の支配者 (エンシ) とする,ウルナンシェの創始した 9 代にわたる王朝が出現し,彼らの政治的碑文が初めてこの地の政治史の再構成を可能にする。ことに第 7,8 代の支配者と最後の簒奪王・改革王ウルカギナの 3 代の治世からは, III期の初めあるいは半ばに位置するとされる〈シュルッパク文書〉よりさらに詳細かつ凝縮的となった行政・経済文書が出土して,緊張の極に達したシュメール都市国家の権力基盤や社会・経済組織解明の鍵を提供する。 ウルカギナはラガシュ都市国家の宿敵ウンマの支配者ルガルザゲシに倒され,ルガルザゲシはウルク王となってシュメール,アッカドの全土を征服するが (ウルク王の在位 25 年),セム系のアッカド王サルゴンに敗れ,シュメールの地はアッカド帝国の支配下に入った。しかしアッカドの統治下においてもシュメール都市は存続し,そこではシュメール語が日常語として使用されていた。 [統一王国――ウル第 3 王朝]  アッカド王国 (前 2350 ころ‐前 2170 ころ?) がグティ人の侵入によって衰えた頃,まずラガシュにシュメール人の独立都市王国が栄え始め, グデア(在位,前 2143 ころ‐前 2124 ころ) の時代にはアッカド帝国の広い交易圏を受け継いだ富裕な小領土国家が確立された。グデアにやや遅れてグティ人を山岳地帯に追い返し,シュメール人の支配を回復,〈四方世界の王〉を称したウルク王ウトゥヘガルの覇権は,その配下 (子ないし弟との説もある) のウル軍事総督ウルナンムの継承するところとなり,ここに 5 代約 1 世紀に及ぶ,シュメール人によるシュメール,アッカドの統一王国ウル第 3 王朝 (前 2112‐前 2004) が成立し, 〈シュメール・ルネサンス〉が実現した。  創始者ウルナンムの現存世界最古の法典の編纂 (〈ウルナンム法典〉) や,広大な地域にわたる検地と属州画定は,官僚群を支柱とする中央集権的国家の側面をもつこの王朝の開幕を飾るにふさわしい。第 2 代シュルギの治世後半はこの王朝の最盛時で,王は王族を今や地方総督を意味するにいたったエンシに任じ,度量衡を統一し,またアッカドの王たちにならって王の神格化をはじめ,自らの神殿を造らせるなどして,支配の強化を図った。現在ウルのほか,ラガシュ,ウンマ,ドレヘム,ニップールから巨大な統計的記録を含む多数の行政・経済・司法文書が出土し,シュルギの時代を中心としてウル第 3 王朝時代の 2 万 3000 の経済文書が公刊されているほどであるが,この時代の体系的な社会経済像はなお模索の段階にある。しかし都市国家時代の,多数の割当地保有者層を中核とする社会が変質し,より複雑化したことは確実である。シュルギ治下のウルにおけるジッグラト (人工の高い重層基壇の上に小祠を頂く聖塔) の造営や,数千頭の牛や数万束のアシを一括した記録の出現に見られるような繁栄や国家的収納機構の整備にもかかわらず,シュメール地方の土地生産力はかなり低下していた。やがて第 4 代のシュシンの時代にはアムル人 (アモリ人 (びと) )の侵入が目だち,第 5 代イビシンの治世の末年にはその配下の武将に支配地域の大部分を奪われた後,王朝はエラムによって滅ぼされた。以後メソポタミアの地がアムル人によってますますセム化されていく過程で,政治中心はイシン,ラルサ,バビロン,エシュヌンナ,マリの 5 強に絞られ,バビロンのハンムラピによる統一の下でシュメール人はアムル人に吸収され,シュメール人の歴史的役割は終りを告げる。 [文化的達成]  シュメール文化は,シュメール語が日常語としては死語となった後も,メソポタミア最後の独立時代である新バビロニア時代まで,古典文学や宗教生活の中に文化語として生き続けた。またウルがセレウコス朝まで,ウルクはパルティア時代まで重要都市として存続したことに示されるように,シュメールの都市はメソポタミア文化の中核として生き続け,またその周辺やその後の古代諸文明にも広範な影響を及ぼし続けた。シュメール時代の文化的達成のおもなものとしては, (1) 都市文明と都市国家の創始,(2) 文字, 楔形文字の創始,(3) 統一王権国家における書記官僚群の寄与, (4) 法的手続の整備や法典 (楔形文字法) の編纂などに見られる法的市民生活の発展, (5) 神話,儀式,祭文,呪文,神殿,ジッグラト,宗教的文学を伴う多神教宗教の発展, (6) 閏月を置く太陰暦を主とする暦法,六十進法,天文学,占星術,初歩的幾何学・代数学などが挙げられる。 ⇒アッカド‖シュメール美術‖バビロニア 山本 茂

ギルガメシュ叙事詩 ギルガメシュじょじし Epic of Gilgamesh 初期楔形文字で書かれたギルガメシュ叙事詩 ギルガメシュじょじし Epic of Gilgamesh 初期楔形文字で書かれたシュメール王名表に記載されている実在の王ギルガメシュGilgame$(シュメールの表記ではギシュ・ビル・ガ・メス) は早くに神話的人物となり,シュメールの断片的な神話物語に登場する。これをもとにしてアッカド語で編集されたのがこの叙事詩で,主として前 8 世紀ころにアッシリア語で書かれたニネベ版約 3600 行のうち現存する約 2000 行によって知られている。ほかにバビロニア語版の一部,ヒッタイト語およびフルリ語の断片などがあり,古代世界に広く流布していたことがわかる。  ギルガメシュはウルクの城主で,3 分の 2 が神, 3 分の 1 が人間であった。はじめ暴君だったのでウルクの人びとは天神アヌにこのことを訴え,アヌの命令で粘土から野人エンキドゥEnkiduが創り出される。動物たちに交じって野原にいたエンキドゥはウルク神殿に仕える遊び女によってウルクへ連れてこられ,ここでギルガメシュと力比べをした。戦いは長く続き,互いに力を認め合って友情が生まれた。こののち 2 人は杉の森の怪物フンババrumbaba 征伐に行き,やっとのことでフンババを倒した。美の女神イシュタルはギルガメシュの雄々しさを見て,夫になってくれるよう頼むが,ギルガメシュはこの女神の移り気を知っているので,あざけってその願いを退けた。イシュタルは怒り,父の天神アヌに〈天の牛〉をウルクへ送ってここを滅ぼすよう求める。 〈天の牛〉はウルクで多数の人を殺すが,ギルガメシュはエンキドゥと力を合わせてこれを倒した。神々はその罰としてエンキドゥの死を決定し,彼は熱病にかかって死んだ。ギルガメシュは涙を流し,〈永遠の生命〉を求めてさまよう。ついに永遠の生命を得たというウトナピシュティム Utnapi$tim を探しあて,その秘密を尋ねると,彼はその昔生じた大洪水,そしてエア (エンキ) 神のおかげで箱船を作って助かった次第を語る。しかし彼もその理由は知らなかった。ギルガメシュはあきらめのうちにふるさとウルクへ戻る。  本叙事詩は 1872 年に大英博物館に運びこまれたニネベ出土の粘土書板からスミス G.Smith によって発見された。当初《大洪水物語》 (第 11 の書板) が見つかったが,彼は表意文字で書かれた物語の主人公の名を正しく読むことはできなかった。ピンチェス T.G.Pinches が 90‐91 年にこの名をギルガメシュと読んだ。こののち欧米各国で研究が行われ,イェンゼン P.Jensen はこれを独訳するとともに,世界各国の神話とこの叙事詩を比較した大著を公刊し,バビロニアを古代文明の源泉とする〈汎バビロニア説〉を強調した。その後,古バビロニア語版断片や,この叙事詩の原型であるシュメール語版断片が発見された。 1930 年にはトムソン C.Thompson によってニネベ版全文の原典が公刊され,各国語訳はますます盛んに行われた。今日では世界中で 20 ヵ国語ほどの翻訳があるほか,音楽や演劇の素材としても利用されている。比較文学上からは,ホメロスの《オデュッセイア》や〈アレクサンドロス大王伝説〉などとの関係が論じられており,最古の世界文学とみなされている。 矢島 文夫 王名表に記載されている実在の王ギルガメシュGilgame$(シュメールの表記ではギシュ・ビル・ガ・メス) は早くに神話的人物となり,シュメールの断片的な神話物語に登場する。これをもとにしてアッカド語で編集されたのがこの叙事詩で,主として前 8 世紀ころにアッシリア語で書かれたニネベ版約 3600 行のうち現存する約 2000 行によって知られている。ほかにバビロニア語版の一部,ヒッタイト語およびフルリ語の断片などがあり,古代世界に広く流布していたことがわかる。  ギルガメシュはウルクの城主で,3 分の 2 が神, 3 分の 1 が人間であった。はじめ暴君だったのでウルクの人びとは天神アヌにこのことを訴え,アヌの命令で粘土から野人エンキドゥEnkiduが創り出される。動物たちに交じって野原にいたエンキドゥはウルク神殿に仕える遊び女によってウルクへ連れてこられ,ここでギルガメシュと力比べをした。戦いは長く続き,互いに力を認め合って友情が生まれた。こののち 2 人は杉の森の怪物フンババrumbaba 征伐に行き,やっとのことでフンババを倒した。美の女神イシュタルはギルガメシュの雄々しさを見て,夫になってくれるよう頼むが,ギルガメシュはこの女神の移り気を知っているので,あざけってその願いを退けた。イシュタルは怒り,父の天神アヌに〈天の牛〉をウルクへ送ってここを滅ぼすよう求める。 〈天の牛〉はウルクで多数の人を殺すが,ギルガメシュはエンキドゥと力を合わせてこれを倒した。神々はその罰としてエンキドゥの死を決定し,彼は熱病にかかって死んだ。ギルガメシュは涙を流し,〈永遠の生命〉を求めてさまよう。ついに永遠の生命を得たというウトナピシュティム Utnapi$tim を探しあて,その秘密を尋ねると,彼はその昔生じた大洪水,そしてエア (エンキ) 神のおかげで箱船を作って助かった次第を語る。しかし彼もその理由は知らなかった。ギルガメシュはあきらめのうちにふるさとウルクへ戻る。  本叙事詩は 1872 年に大英博物館に運びこまれたニネベ出土の粘土書板からスミス G.Smith によって発見された。当初《大洪水物語》 (第 11 の書板) が見つかったが,彼は表意文字で書かれた物語の主人公の名を正しく読むことはできなかった。ピンチェス T.G.Pinches が 90‐91 年にこの名をギルガメシュと読んだ。こののち欧米各国で研究が行われ,イェンゼン P.Jensen はこれを独訳するとともに,世界各国の神話とこの叙事詩を比較した大著を公刊し,バビロニアを古代文明の源泉とする〈汎バビロニア説〉を強調した。その後,古バビロニア語版断片や,この叙事詩の原型であるシュメール語版断片が発見された。 1930 年にはトムソン C.Thompson によってニネベ版全文の原典が公刊され,各国語訳はますます盛んに行われた。今日では世界中で 20 ヵ国語ほどの翻訳があるほか,音楽や演劇の素材としても利用されている。比較文学上からは,ホメロスの《オデュッセイア》や〈アレクサンドロス大王伝説〉などとの関係が論じられており,最古の世界文学とみなされている。 矢島 文夫

シュメール美術 シュメールびじゅつ 本項では歴史の流れを考慮し,アッカド美術をも記述に含める。  シュメール美術の作品例は,ウルク期 (前 3800 ころ‐前 3000 ころ) のころからのものが知られている。この時期にメソポタミア南部の都市ウルクでは,聖域エアンナEannaに神殿複合体が造営された。なかでも注目されるのは〈モザイク神殿〉で,その壁や柱には一面に円錐形の陶製飾りが底面を壁の表面に残すようにして打ちこまれ,幾何学形パターンの組合せによるモザイク装飾の効果を上げていた。またウルク期には丸彫の人物小像が作られ,後期には円筒印章も使われるようになった。この時期の円筒印章はやや大型で,図柄には人物や動物が登場するさまざまな情景が好んでとり入れられた。 ⇒ウルク文化  次のジャムダット・ナスル期 (前 3000 ころ‐前 2800 ころ) には,彫刻の分野に注目すべき展開がみられる。丸彫のほかに浮彫が発達し,小規模な記念碑や祭儀用の石製容器の表面を飾るようになった。なかでもアラバスター製の大型の筒形壺〈ワルカ (ウルク) の壺〉 (ウルク出土) では,外面に帯状に 3 段の低浮彫がほどこされている。ここに描写されているのは,女神イナンナInannaに関すると思われる祭りの場面である。円筒印章はこの時期に急に数がふえたが,図柄はウルク期のものよりむしろ粗雑になり,植物文様の変形である図式化された幾何学文様が流行した。これは円筒印章自体が小型になったこと,大量生産されるようになったことに関係していると見られる。ジャムダット・ナスル期の円筒印章はエジプト,イラン,東地中海地方などからも出土しており,このころ広範囲にわたってシュメール世界と他の文化圏との交流があったことがわかる。 ⇒ジャムダット・ナスル文化  前 2800 年ころから始まるシュメール初期王朝時代は,考古学的には 3 期に分けられる。第I期 (前 2800 ころ‐前 27 世紀) に衰退の傾向を見せたメソポタミア南部の都市国家は,第II期 (前 27 世紀‐前 26 世紀) に再び繁栄へと向かって動き出した。 テル・アスマルTell Asmar,テル・アグラブTell Agrabなどから発見された第II期相当の神殿址からは,多くの彫像,いわゆる礼拝者像が発見された。これらは一様に直立し胸の前で両手を組み合わせた姿勢をとった石像で,人体表現はやや堅苦しく丸味に乏しい。しかし,象嵌細工による目は大きく,印象的で,見る者に強い感銘を与える。テル・アスマルの方形神殿から発見された一群の彫像は,このような第II期の彫刻を代表するものといえる。第III期 (前 26 世紀からアッカド王朝成立時まで) になると,彫刻では様式化にこだわらず人体の自然な特色を表現することに関心が向けられるようになった。彫像の体つきは丸味をおび,〈カウナケス kaunakes 文様〉と呼ばれる手法を用いて頭髪やあごひげ,身にまとっている毛皮の柔らかい質感が表現された (マリ出土の〈エビー・イル像〉など)。またこの時期には,浮彫をほどこした壁面装飾用の石板が多く作られた。初期の浮彫は平面的で硬い作風を見せていたが,やがて人物,動物などの肉付きが立体感を持ち,図柄にも多様性が見られるようになっていく。その優れた作品例としてラガシュ出土の〈禿鷹の碑〉がある。表裏両面の図柄はそれぞれ興味深いが,とくに歩兵部隊の配列の表現方法に独特の工夫が見られる。また神殿址から発見される容器類や道具類の表面にも,人物,実在または空想の動物,抽象的な象徴などを組み合わせた,独自の意匠を持つ浮彫が見られる。建築は初期王朝時代から平たいかまぼこ状の形態を持つ日乾鮭瓦 (プラノ・コンベックス鮭瓦) が主要な材料として用いられるようになった。また神殿のプランでは入口と祭壇とが直角に位置する〈ベント・アクシス様式〉が主流であった。 ハファジャKhafajaの楕円形神殿,テル・アグラブのシャラ神殿などが代表例である。また円筒印章は,初期王朝時代にも盛んに製作された。第I期には装飾的要素を画面全体に散らしたような図柄が主流であったが,第II期に入ると意匠に変化と多様性が出てくる。 〈英雄〉または半人半獣の主人公と,動物との戦いの場面が多く見られ,また銘文も刻まれるようになった。第III期の円筒印章は彫りの技術が進み図柄の題材が多様になり,小規模の浮彫を思わせるような作品も出現する。一方 20 世紀に発見されたウルの王墓からは,副葬品として多くの貴重な工芸品が出土した。 〈メスカラムドゥグ Meskalamdug の黄金の兜〉,金製の装身具や刀剣類は,この時期に金属の打出し刻文技術が高度に発達していたことを物語る。また木製の土台の上にピッチをおき,貴石,貝殻,ラピスラズリなどをはめこんで意匠を表す象嵌技術が,多くの作品に応用された。 〈ウルのスタンダード〉はこの技法を用い,横長の画面の表裏を図柄で飾ったパネルである。そこには帯状に仕切られた各段に,戦闘,勝利,祝宴などの場面を説話風に描出する,メソポタミア独特の表現様式が見られる。ほかにもウル王墓出土のゲーム盤や楽器の部分に象嵌技法の使用例が見られる。 〈灌木にもたれかかるヤギ〉にも当時の工芸技術が駆使されている。  セム人がメソポタミアの政治的な支配権を握ったアッカド王朝 (前 2350 ころ‐前 2170 ころ) 時代の美術は,シュメール初期王朝時代に形成された美術の伝統を継承しながらも,新しい傾向を加え発展させたものであった。彫刻の分野では,現存している作品の数こそ少ないが,技術的にも芸術的にも高い水準に達していたことがわかる。ニネベ出土のブロンズ製の男の頭部は,アッカドのサルゴン王の肖像とも考えられているが,頭髪,あごひげの表現にシュメール初期王朝時代の手法を残しながらも,顔の表情にはそれまでに見られなかった自然な特色が現れている。この像はまた,当時ブロンズの鋳造技術が高度に発達していたことを証明する貴重な存在である。浮彫では〈ナラムシン王の碑〉 (スーサ出土) がよく知られる。ナラムシン王の戦勝を記念するこの石碑は,縦長の石碑面をいっぱいに使いながら斜め上方への動きを出している巧みな構図,人物の肉体表現に見られる自然主義的傾向など,シュメール初期王朝時代の浮彫には見られない新しい感覚を示している。円筒印章でもアッカド王朝時代には大きな発展が見られ,図柄の面では印章一回転で一つの完結した場面を表そうとする傾向が見られる。神話伝説に題材を求めたと思われる説話風の場面や,神の前に立つ礼拝者像を表した場面など図柄が多様になり,登場する神,英雄,人物,動物の組合せは巧みで,描写はより自然主義的になっていった。  アッカド王朝がグティ人の圧迫により滅亡したころ,メソポタミア南部において唯一独立を維持していたシュメール人の都市国家ラガシュからは, グデアとその子ウルニンギルスUr‐Ningirsuを表した石彫像が数多く発見された。これらはすべて神に祈りをささげている姿勢をとる直立像または座像で,硬質の玄武岩の持つ質感を巧みに生かした量感あふれるものである。像は静かでしかも力強く,荘重な気分を漂わせている。  グティ人をメソポタミアから追い払ってウル第 3 王朝がシュメールの覇権を握った時代,すなわち新シュメール時代に,首都ウルは整備され,数多くの建築物が造営された。聖域テメノスTemenosにはジッグラトのほか,数多くの神殿が建設された。このジッグラトは 3 段の基壇を積み上げ,階段を巧みに配置し,最上段に神殿をもうけた壮大なもので,新シュメール時代の建築のもっとも優れた例といえよう。また墳墓建築として,ウル第 3 王朝の創立者ウルナンムUr‐Nammuのものと思われる地下の墓室が発見されている。彫刻では少数の浮彫作品が現存しているのみである。ウルナンムの碑は当初は高さ 3mにも及ぶ大作であったが,現在は部分的にしか残っていない。画面を水平に何段にも区切りおのおのの段に図柄を配する伝統的構図が,ここに復活している。題材は神々の象徴と王が神の前で儀式を行っている場面などを組み合わせたもので,宗教的色彩を強く帯び,アッカド王朝時代の浮彫とは異なる題材が選ばれている。また画面全体のシンメトリーが重視されている点が目だつ。登場人物に動きが少なく画面が静的で,衣服の扱いなどに初期王朝時代以来の伝統的な要素が見いだされる。同様のことは,ウル第 3 王朝時代の円筒印章についても言える。一般にこの時期の美術には,意匠,題材,表現などに,伝統的な要素が濃厚であった。ウル第 3 王朝の滅亡とともに,シュメール人は歴史の表舞台から姿を消し,その美術も再び華やかに栄えることはなかった。 ⇒メソポタミア美術 松島 英子

ウルク文化 ウルクぶんか 南メソポタミアにおいてウバイド期 (ウバイド文化) に続く前 5 千年紀後半から前 4 千年紀中ごろまでの文化。シュメール都市ウルクの中心にあるエアンナ Eanna 地区のXIV〜IV層を標式とする。ウルクは 1 辺約 2.5kmの不整方形の城壁で囲まれ,神殿や宮殿などの建造物,個人の家,墓地と田園がそれぞれ 3 分の 1 を占めていたと推測される。シュメール王名表に 5 回登場し,その第 1 王朝 5 代目には英雄叙事詩で有名なギルガメシュが王としてみえる。ウルク期を前 (XIV〜IX),中 (VIII〜VI),後 (V〜IV) に細分し,中・後期をジャムダット・ナスル文化期と連続させて〈原文字期Proto‐literate Period〉と呼ぶこともある。  ウバイド期と区別されるのは,XIV層に赤色磨研土器および灰色磨研土器が新しく登場し,轆轤 (ろくろ) 製の無文土器が優勢になるからであり, XIV層の新要素とシュメール人の到来を関連させる考え方もある。ウバイド文化を基盤としてこの時代にシュメール都市が形成されたが,その過程を追跡することのできる資料はほとんどない。 V,IV層の 80m× 30mの石灰岩神殿,80m× 50mの D 神殿は明らかにウバイド期の神殿が発達したものであり,その頂点として文字の発明がある。 IV層出土タブレットの文字にみえる家畜が引く犂 (すき),おそらく銅製の鎌,車などの存在,遺物にみられる冶金術の発達と広範な交易は,その発達の背景と成果を示す一部であろう。神殿などの巨大な建造物の壁面装飾として,壁や柱には,円形部を塗り分けた土製の長い円錐の先端を,幾何学文を構成するようにモザイク状に全面にわたってさしこんでいる。神殿の祭りには,正座の礼拝者像,女性頭部,祭儀の場面を低浮彫で表した高さ 1mに及ぶ大型石製壺などが用いられた。古代西アジアの最も特徴的な遺物である円筒印章を生み出したのも,この文化の末期である。一種の升といわれる型製三角縁鉢もこの頃つくられ,西アジアに広く分布する。ウルク文化の中心はバビロニアであるが,ユーフラテス川沿いに北上し,北シリアで最近発見されたハブバ・アルカビラHabuba al‐Kabira はシュメール人の植民都市と考えられる。この時代のティグリス川流域は〈眼の神像〉に代表されるようなシリアと関連の強い文化を形成しており,一般にガウラ期と呼んでいる。 小野山 節
ジャムダット・ナスル文化 ジャムダットナスルぶんか メソポタミア南部,すなわちバビロニアのジャムダット・ナスル Jamdat Nasr 遺跡を標式とする,前 3200 〜前 3100 年ころの文化。かつてジェムデット・ナスルJemdet Nasr とも記された。ジャムダット・ナスルはバビロンの北東 40kmにあり, 1925‐26,28 年にオックスフォード大学の S.ラングドンが, 92m× 48m以上の宮殿らしい日乾鮭瓦の大きな建物と,赤と黒による幾何学文からなる彩文土器,やや発達した象形文字をもつタブレットなどを発掘した。ウルクの層位的発掘で第III層に並行することが確認され, シュメール文明の編年において,ウルク文化に次いで興り,初期王朝期に続く重要な位置を与えられたが,最近ではむしろウルク期に含めてその末期の様相と考える見方が強い。この時代の遺跡は中心となるバビロニアだけでなく,北につながるディヤラ川流域,ユーフラテス川中流域のマリ,上流のアレッポに近いハブバ・カビラにも存在する。さらにジャムダット・ナスル期に特徴的な土器,円筒印章,浮彫の図文などの出土地が,西ではゲルゼ文化から第 1 王朝期に至るエジプト,シリア,アナトリア高原,エーゲ海,北ではアッシリア,南ではバハレーン島からオマーン,東ではイラン高原東部にまで達しており,広範な地域との交渉のあったことが知られる。さらにルーマニアのタルタリアから出土したタブレットの絵は,反対もあるが,ジャムダット・ナスル期の象形文字に類似している。この時代はシュメール文明がメソポタミアをこえて大きく発展した時代である。神殿の規模はウルク期より縮小するが,大きな基壇上に位置し,都市は城壁で囲まれ,すでに強力な支配者が出現していたことが,丸彫像,記念碑の浮彫,円筒印章の図文などからも推測できる。なおウルクVIII〜III層を原文字 Proto‐literate 期とよび, VIII〜VI層を A 期,V〜IV層を B 期,III層を C 期と D 期に細分する考え方がある。この場合には原文字期 C・D 期がジャムダット・ナスル期に相当するが,この基準はバビロニアの遺跡に拠っていないのであまり適切とはいえない。 小野山 節
錬金術の3つのシンボル
太陽  

2006/03/12 (Sun)
唐草物語
聖樹ナツメヤシイグドラシルレバノン杉聖樹イチジク
アカシア|生命樹(?)街角のおまけ
聖樹文様 生命樹

笏(しゃく)Sceptre
|Ankhアンク| Djed pillarsジェド柱|Ouasウアス杖
ヘルメスの杖アスクレピオスの杖| |プタハ神の笏
聖獣文様 エジプトの目次

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