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『神の国とひとの国』

岩波美術館 歴史館 第4室 中世ヨーロッパ
柳 宗玄, 前川 誠郎, 高階秀爾編集


Cathédrale de Chartres - Vitrail de la vie de Saint Lubin, baie 45.
シャルトル大聖堂、聖ルビンの生涯のステンドグラスの窓
baie (ベ。フランス語)湾、〚建〛開口(部),窓,出入り口.

【歴史館 12冊】 第1室 かたちの誕生/ 第2室 太陽王国の遺産 /第3室 エーゲ海とギリシア・ローマ/ 第4室 中世ヨーロッパ /第5室 中世オリエント/ 第6室 ブッダの世界 /第7室 東洋のこころ /第8室 日本のかたちと美 /第9室 ルネサンス /第10室 バロックとロココ 第11室 /19世紀の美術 /第12室 現代の美術


岩波美術館 (歴史館 第4室)
神の国とひとの国―中世ヨーロッパ
柳 宗玄 | 1985/3/27


新装版 岩波美術館 歴史館〈第4室〉
神の国とひとの国―中世ヨーロッパ
柳 宗玄, 前川 誠郎, 高階秀爾 | 2002/7/24

神の国とひとの国

me図版は24あって、新装版の方の表紙は、シャルトル大聖堂北側廊のステンドグラス。(上記※第19図 ぶどう畠のぶどう作り)
旧版は、クリュニー美術館のタペストリー。(第24図 愛の園)

両方現地にて見ていたが、ここで、見直し、巻末の前川誠郎さんによる解説もチェックしたい。

古代ギリシア・ローマとルネサンスの狭間にある中世西欧美術は,ラテン世界を中心にキリスト教を絶対的権威として,ケルト・ゲルマンなど北方諸民族がになう古代的要素の濃いものであった.ロマネスクやゴシックの聖堂を飾る写本・壁画・ステンドグラス・彫刻などには,民族を超えて開花発展したみごとな共通の文化がある.(Amazon)

編集著作

※美術史家前川 誠郎まえかわ せいろう 1920-2010)
デューラー
およびネーデルラント等の北方ルネサンスの美術に業績があり、1975年以来ライヘナウの修道院聖堂の実地調査を行ったwikipedia

柳 宗玄やなぎ むねもと、1917-2019)
1972年『ロマネスク美術』(学研)の編集で毎日出版文化賞受賞 (wikipedia)

高階 秀爾たかしな しゅうじ、1932-)
多くの美術書で啓蒙的役割 ルネサンス期以降の西洋美術が専門 (wikipedia

ぶどう畠のぶどう作り
(1200-1215制作)

ステンドグラス
シャルトル大聖堂北側廊

第15図 《王の門》 のあるシャルトル大聖堂は、180ほどもある(※)形もとりどりの窓のはめられた壮麗極まりないステンドグラスのゆえにとく有名。

wikipediaによれば176ある

 

 (第19図は)北側廊にある《聖ルビヌス殿の窓》の一部で、《王の門》の彫刻より半世紀ほど後に作られた。
寄進したのがぶどう酒醸造組合なので、二輪馬車に大きな酒樽を積み、馬を励ましながら道を進む酒造業者の姿が寄進者像として描かれている。

聖ルビヌス⇒聖ルビン(wikipedia
シャルトルの守護聖人。
奇蹟を行なったという慈善的な6世紀の司教557年没
シャルトル大聖堂の北通路にあるステンドグラスの窓は、聖アビットに祝福された彼を表しています。
 

ロマネスクのガラス窓(14図)と比べると色が深みを増し、また鉛の枠も複雑になっている。

ロマネスクからゴシックへの変化の大きさと速さは実に驚くべきもの。
一方で、反古代的な神の国の建設が進むにともなって現実を見る目も開け、彫像は人間性をそなえ、風俗や自然の描写が増え、その結果としてルネサンスが準備されるところに歴史の面白さを感じる。


Chartres - Vitrail de la Vie de saint Lubin-1
Cathédrale de Chartres - Vitrail de la vie de Saint Lubin, baie 45.
シャルトル大聖堂、聖ルビンの生涯のステンドグラスの窓
baie (ベ。フランス語)湾、〚建〛開口(部),窓,出入り口.

me植物の形は様式的に殊更いろいろな形を入れようとしているようだ。赤と白で茎が絡んでいるところはブドウのように見えなくもない・・

me当然ながら当方の旅は、「確認の旅」のようなものでしかないが、記録はこちら→シャルトルPhoto byM 20190603

新装版のこの一冊への解説(前川誠郎

me以下抜き書き引用であるが、この本にはページナンバーが付されていない。(実線長方形内は巻末の8ページから、点線は各作品解説ページからの抜き書き。)
中世美術について、コンパクトに俯瞰できた。

※前半12図のこのサイトのページでの取り上げの順。(このページでは前半の図像のみ。)
(表紙以外の図は巻末解説に取り上げられた順で、言及が抜けた図は適宜挿入)
第1図 炉の中の三人のユダヤ /第2図 コンスタンティヌス大帝の肖像/  第3図 受胎告知/ 第6図 玉座のキリスト 第7図 勝利のキリストと二天使/ 第4図 福音書の十字架図 /第5図 律法学士エズラ /第8図 最後の審判/ 第9図 弟子の足を洗うキリスト 第10図 水腫患者をいやすキリスト/ 第11図 女と竜 /第12図 最後の審判/

1000年の流れ

中世という概念はギリシア・ローマの古代とその再現であるルネサンス(15~16世紀)との間に挟まった中間の時代 という考え方から生まれた。
ローマ帝国の滅亡をもって古代が終わったとすると、中世の初めはおよそ西暦400年、それから14世紀末まではちょうど1000年。大変な長さ。

→歴史館第9室『ひとと自然への目覚め)』

ルネサンスの大画家デュ―ラーは自分の祭壇画に500年の生命を保証した。
彼の生きた16世紀初めは、ちょうど500年前に各地で開花したロマネスク美術が次第に痛みも激しくなってルネサンスの新芸術と交代していく時期であった。ドイツでもイタリアでもそれを目の当たりに見たデュ―ラーは美術の最も長い生命はせいぜい500年であると痛感していたと思われる。

中世または西洋の成り立ち

中世という言葉が相も変わらず使われている、この1000年間を一つの統一体と見なしうる特徴とは、キリスト教の絶対的権威

3世紀近い長く激しい闘いの後に、西暦313年のミラノ勅令で信仰の公認を勝ち取ったキリスト教は、ローマ帝国の首都の地にサン・ピエトロ大聖堂をはじめとする多くの壮麗な教会堂の建造に着手。

ところが公認からわずか17年で都は遠く離れたビザンティウムに移り、4世紀の末には帝国は東西に分立し、西ローマ帝国は北方民族のために滅亡(476年)し、教会も東西に分離してしまう。

それからおよそ1000年後(1453年)に首都コンスタンティノポリスがトルコ軍の手に陥るまで、東ローマ帝国は、古代の唯一の正当な継承者としてヨーロッパに対峙し、東のギリシアと西のラテンという二つの大きな政治的文化的世界の対立が、中世を規定する基本構造として存在した。

4世紀の末近くからロ―マ帝国を脅かし、ついにその半分を滅亡へと追いやった民族大移動はその後も様々な様相を示しつつ継続し、フランク、ゴート、ランゴバルドなどの諸王国が攻防を重ねる。その間にそれらの諸民族は次第にキリスト教へと改宗を進め、732年フランクの宰相カルル・マルテルが、すでにイベリア半島を併呑してガリアの地を侵す至ったサラセン軍をポワティエの戦闘で撃退することに成功した。

カール・マルテルKarl Martell 688頃 –741)は、
メロヴィング朝フランク王国宰相。
トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝の進撃を食い止め、へ西ヨーロッパへのイスラム教徒の侵入をイベリア半島でとどめたことで名高い。

ウマイヤ朝メロヴィング朝フランク王国、、イスラム教徒 、イベリア半島 、西ヨーロッパ

この挙によってフランク族(ゲルマン人)は広くキリスト教世界の信望を得た
800年 マルテルの子ピピンがローマで戴冠しカルロス大帝(シャルルマーニュ)に。
帝国を形成する多くの部族を統治するため、常に版図を順狩する必要があり、冬宮の所在地アーヘンが、かろうじて首都の役割。

アーヘン(ドイツ語: Aachen)

シャルルマーニュの死後、彼の帝国は東中西の三王国に分裂、のちのドイル、イタリア、フランスを形成していく。イングランドは初めからフランク王国の外にあり、イベリア半島の大半はサラセン(イスラーム)の支配下に置かれたままであった。

わたしたちが「西洋」と呼ぶものの実態は9~10世紀に固まる。
西洋文化とは、西方すなわちラテン世界において、
(1)キリスト教を信奉する
(2)ケルト・ゲルマンなど北方民族によって荷なわれた
(3)古代の文化

古代的要素と北方的要素

原始キリスト教は古代の異教世界を覆すことを目標にして過酷な迫害の時代を耐えたので、偶像崇拝に関しては極めて厳しい姿勢をとっていた 。

(パウロの話)使途行録17→歴史館第3室総論(Amazon)

それから3世紀を経て勝利を収めたキリスト教は、造形表現に関しては、もはや決してかたくなではなかった。
否、古代美術の遺産にしても使えるものはそれを生かして使おうとする寛容な態度へと変わってきている。

異教の神殿を壊してとってきた円柱を利用したりすることもしばしばであった。こうしてキリスト教美術は古い皮袋に新しい酒を盛って生まれた。(美術史の支配的原理)

第1図 炉の中の三人のユダヤ( カタコンベの壁画)
3世紀中頃、壁画50×87㎝ プリシラのカタコンベ

神やキリストや聖母などの姿を表わす代わりに、オランス(両手をほぼ水平に挙げ天を仰いで祈る)の姿や大きな苦難からの救済の物語を好んで表現した。

me旅の準備で見た プリシラのカタコンベcatacombeの場所(サンタ・ コンタンツァ教会の近く。&公式サイトリンクあり。)

第2図 コンスタンティヌス大帝の肖像 3
15年ごろ、大理石、高さ260㎝
ローマ。コンセルヴァ―トリ宮

キリスト教を公認したため、キリスト教の外護者として尊崇を受け、帝の肖像や関係遺跡は中世の間も破壊から免れた、

第3図 受胎告知
5世紀前半、モザイク、ローマ・サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂

コンスタンティヌス大帝の後を継いだテオドシウス帝の治下のヘレニズム復興の機運を踏まえた古典主義的で格調の高いもの。 こうしてキリスト教美術は今やローマ帝国の美術の正当な継承者となった。マリアはまさに「天の元后」の姿。それは 自信あふれる当時のキリスト教そのものの姿。

情実の3要素を含んだ美術の出現は、9世紀のカロリング朝美術までまたなけれならない。

第6図 玉座のキリスト 『ゴデスカルクの福音書抄本』
781~783年制作。羊皮紙、31㎝×21㎝、パリ国立図書館

シャルルマーニュが、ゴデスカルクという臣下の写字生に命じてみずからと后のために制作させた典礼用の福音書抄本中の全頁大のミニアチュール 

第7図 勝利のキリストと二天使 『ロルシュの福音書』装丁板、810年ころ、ドイツ、象牙、37.7×27.5㎝ ヴァチカン美術館

アイルランドはローマの支配下に置かれたことはなく、ケルト人が住んでいた。 コプト(エジプトのキリスト教徒)によって早くにキリスト教が伝えられた。

第4図 福音書の十字架図『リンディスファーン福音書』
犢皮紙(※)、34×24㎝
ロンドン、大英図書館

258葉の犢皮紙からなる(※とくひし、中世以降、材料にかかわらず高級な皮紙をいう。英語ヴェラム)アイルランド系写本の傑作

ハイバーノサクソン写本(一括してよばれる)
ケルト伝来の巴文や螺旋文にコプト系の組紐文が加わって、形態と色彩の妙を尽くした華麗な装飾文様の芸術が展開された。

古代の不滅

664年 イングランドの北端の町ウィトビーで開かれた公会議でカトリックの優位を承認した。
面白いことにアイルランド系写本の最盛期はそのあとに訪れる。
それは、北方民族が地中海世界の文化を受容し学習する過程でもあった。

664年ウィットビー教会会議の後、ノーサンブリア王国は今まで影響下であったケルト系キリスト教に代わり正式にローマ・カトリック教会の傘下となった。しかしその後もケルト系キリスト教の影響は続いており、その傾向はリンディスファーンの福音書にも見られる。(wikipediaの記述

古代の美術は「人体表現の美術」である。
または「ヒューマニズムの美術」「彫刻的芸術」
一方、ケルト・ゲルマンの美術は
錯綜した線と華麗な色彩が織りなす「抽象芸術」であり、本質的に「平面的または絵画芸術」
である。

そこには容易に越えがたい溝があったに違いないメロヴィング朝やカロリング朝さらにはオットー朝の時代に作られた写本装飾画に見られる人体表現はその溝を越えようとする苦闘をまざまざと示している。

第5図 律法学士エズラ
『コーデックス・アミアティヌス』8世紀初め
北イングランド、羊皮紙、50.5×34.0㎝
フィレンツェ、ラウレンツィアーナ図書館

エズラは『旧約聖書』の初めの五書の著者であるといわれる。
北イングランドのジャロウ修道院長ケオルフリドが教皇グレゴリウス2世(在位715-731)に献上。
6世紀半ばの カシオドルスがつくらせた『コーデックス・グランディオール』にエズラの肖像の原型があったものと推定される。
すなわち、このミニアチュールはアングロ・サクソン人の手による古代ローマ美術の模写。

me 越宏一「ヨーロッパ中世美術講義」を読む頁に図像解説をいれた。 ミニアチュールの頁

※Kingdom of Northumbriaノーサンブリア王国(wikipedia):イギリスにとって宗教の普及や拡散における重要な中心地&ブリテン島の美術の中心地
ノーサンブリア東岸のリンディスファーン島、モンクウェアマウス・ジャロー修道院(en:Monkwearmouth-Jarrow Abbey

第8図 最後の審判
『ベアトゥス本黙示録注釈書』、10世紀中頃
北スペイン、羊皮紙、片面38×28㎝
ニューヨーク、ビアポイント・モーガン図書館

この図は、MS M.644 (fols. 219v–20)
公式サイトで 大サイズで見られる
https://www.themorgan.org/collection/Apocalypse-Then/52#

2ページあわせた見開きを巧みに利用して描かれた独特の構図。
特に印象的なのは強烈な色彩。黄と赤を主体にして、そこへ茶や紫や濃紺を配しコントラストを強めている。黄は入手しがたい金の代わりに使われたらしいが金とは全く別の効果をあげている。

イベリア半島を支配したイスラームへの憎悪と恐怖のゆえに、スペインのキリスト教徒たちは悪竜との戦いや最後の審判、そして神の国の到来を記した黙示録に激しい共感を抱き、その絵解きを多く制作した。

me2020k/beatus.htmlで、黙示録の獣はたくさん見た・・・

第9図 弟子の足を洗うキリスト
『オットー三世の福音書』、1000年ころ
ドイツ、ライヒェナウ、羊皮紙
ミュンヘン、バイエルン州立図書館

ヨハネ伝(13) ユダヤでは、足を洗う=穢れを浄め
イエスが突然にとった不思議な行動に対する怪訝な気持ちが良くあらわれている。古代風の遠近法と、その反対の形の逆遠近法が同時に使われて、立体的なものの各面を出来るだけ多く見せようとする中世的な遠近法が認められる。

『ゴデスカルクの福音書抄本』(第6図)のようなカロリング朝写本から2世紀経過し、その間に古代美術の流れをめぐって大きな変化が起こっている。人体造形や空間表現から説明的な要素がほとんど姿を消し、代わってってキリスト教信仰に裏付けられた画家の主観が形や色彩のすべてを支配している。第10図の壁画と同じ時期に同じライヒェナウ島で描かれたとは信じられない。

ライヒェナウ(Insel Reichenau)僧院の島(wikipedia) 
ドイツの世界遺産
10世紀後半から11世紀後半にかけて、色模様・飾り文字で飾られたきらびやかな写本を生み出す芸術的影響を持つ場所となった。「バンベルクの黙示録」('Bamberger Apokalypse')や神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世のための「ハインリヒ2世の福音書」(das Evangeliar Heinrichs II.)等多数の傑作が作成され現存するが、収蔵地はバンベルク、ミュンヘン等である

第10図 水腫患者をいやすキリスト
10世紀末、壁画、フレスコ、高さ228㎝
ドイツ、ライヒェナウ サンクト・ゲオルク聖堂

カロリング朝以来の古代美術への傾斜が残る。
第9図のオットー朝写本の表現的様式との大きな違いは、古い壁画の伝統を直接継承している。

第11 図 女と竜
1100年ころ作成、壁画、フレスコ
フランス、サン・サヴァン(シュ‐ル・ガルタンプ)聖堂

『新約聖書』ヨハネ黙示録(12)の絵解き

古代的人間像に忠実であろうとする姿勢が次第に薄れ、みずからの「神の像」を求めて敬虔でしかも奔放な造形活動の大きな喜びへと変わってゆくのが中世美術だが、古代はどのように変貌しても死に絶えることなく生き続けた。コンクのサントフォアの聖女フォア(信仰の意)の座像。
嫌悪すべき異教性と古代の文物を尊重しまた模倣すべきものとする、精神の二重構造が中世の文化を支えていた。

第12図 最後の審判
1130~1140年制作、石灰岩
フランス、コンク、サント・フォア聖堂
Saint Faith Abbey Church of Conques 03
Saint Faith Abbey Church of Conques

(岩波書店による)この本の内容
古代ギリシア・ローマとルネサンスの狭間にある中世西欧美術は,ラテン世界を中心にキリスト教を絶対的権威として,ケルト・ゲルマンなど北方諸民族がになう古代的要素の濃いものであった.ロマネスクやゴシックの聖堂を飾る写本・壁画・ステンドグラス・彫刻などには,民族を超えて開花発展したみごとな共通の文化がある.
-  中世という観念が、ギリシア・ローマの古代とその再現であるルネサンス(15~16世紀)との間に挟まった中間の時代という考え方から生まれてきたものであることは……すでに述べた通りです。ローマ帝国の滅亡をもって古代が終わったとするなら中世の初めはおよそ西暦400年、それから14世紀の末までちょうど1000年間が中世ということになります。1000年という時間はたいへんな長さです。……凡人には100年の歳月をすら容易には実感できません。その10倍の時間を一口に中世と呼んでも、それがとうてい単一的なものではあり得なかったことは明らかです。  しかし概念の成立よりすでに四、五百年経った現在でも中世という言葉が相も変わらず使われているとするとならば、そこにはこの1000年間を一つの統一体と見なしうる何かの特徴があるはずで、それがキリスト教の絶対的権威であったことは申すまでもありません。…… (前川 誠郎「神の国とひとの国」より)
- 炉の中の三人のユダヤ人 3世紀中ごろ,壁画,50×87cm ローマ,プリシルラのカタコンベ
福音書の十字架図 『リンディスファーン福音書』,7世紀末 犢皮紙,34×24cm ロンドン,大英図書館
預言者ホセア 11世紀,ステンドグラス,230×55cm ドイツ,アウグスブルク大聖堂
王の門(部分) 1145~1155年制作 フランス,シャルトル大聖堂西正面扉口
ピエタ 15世紀第1・四半期,木版画,手彩色,20.1×13.7cm ウィーン,アルベルティーナ

me”岩波美術館で中世ヨーロッパの美術を見る”・・
以上、 [岩波美術館 (歴史館 第4室) 神の国とひとの国―中世ヨーロッパ]の読書その1。
【歴史館】(12冊)だが、次いで、この歴史館 第4室の後半部分と、〈第5室〉天と地の賛歌―中世オリエントあたりを見たいが、解説の部分が前半に関わる図像で終わっていたので、ここでやめ、
つぎは、【テーマ館】(こちらも12冊)の第2室「ひとのかたち」を。
オータンのロラン美術館で見た、《ギスベルトゥスのエヴァ》やラヴェンナで見た《殉教聖者の行列》の解説があるので、そちらをピックアップして見ます。
また、 第9室の「木と草花」の解説も興味深い。

いずれにしても、全部をカバーできるはずもないので、ピックアップで見ます。続く~~
次へ(テーマ館第2室)。(20210714)

岩波美術館〈歴史館 第1室〉かたちの誕生 – 1987/5/18 高階 秀爾 著(Amazon)
岩波美術館〈歴史館 第2室〉太陽王国の遺産 (1987/4/24)(Amazon)
岩波美術館(歴史館 第3室)美神の世界―エーゲ海とギリシア・ローマ ) - (1984/2/20)(Amazon)
新装版 岩波美術館 歴史館〈第5室〉天と地の賛歌―中世オリエント(2002/8/22)(Amazon)
岩波美術館〈歴史館 第9室〉ひとと自然へのめざめ―ルネサンス (1981年) (Amazon)
新装版 岩波美術館 歴史館〈第9室〉ひとと自然へのめざめ―ルネサンス( 2002/12/25)(Amazon)

※新装版でない「岩波美術館」岩波書店、24巻(テーマ館と歴史館) の刊行年は…
テーマ館:
第1室:『ひとの顔』(柳宗玄)1983/ 第2室:『ひとのかたち』(前川誠郎)1982/ 第3室:『人びとの暮し』(高階秀爾)1982/ 第4室:『踊るひと』(高階秀爾)1981/ 第5室:『暮しのなかの静物』(柳宗玄)1984/ 第6室:『生きものの姿』(柳宗玄)1982/ 第7室:『ものがたり』(前川誠郎)1986/ 第8室:『山と水』(前川誠郎)1985/ 第9室:『木と草花』(柳宗玄)1983/ 第10室:『建てものとまち』(前川誠郎)1983/ 第11室:『幻想 : ファンタジー』(高階秀爾)1983/ 第12室:『いろとかたちのリズム』(高階秀爾)1985
歴史館:
第1室:『かたちの誕生』(高階秀爾)1987/ 第2室:『太陽王国の遺産』(柳宗玄)1987/ 第3室:『美神の世界 : エーゲ海とギリシア・ローマ』(前川誠郎)1984/ 第4室:『神の国とひとの国 : 中世ヨーロッパ』(前川誠郎)1985/ 第5室:『天と地の賛歌 : 中世オリエント』(柳宗玄)1982/ 第6室:『ブッダの世界』(柳宗玄)1984/ 第7室:『東洋のこころ』(柳宗玄)1985/ 第8室:『日本のかたちと美』(前川誠郎著)11982/ 第9室:『ひとと自然へのめざめ : ルネサンス』(前川誠郎)1981/ 第10室:『バロックとロココ』(高階秀爾)1983/ 第11室:『ひとと自然をみつめる : 19世紀の美術』(高階秀爾)1982/ 第12室:『さまざまな試み : 現代の美術』(高階秀爾)1982/

me関連ページ”エミール・マールの古典書を読む”『ロマネスクの美術(下)』2015k/romanesque_em2.html

meなお、以前女性像関連サイトで、ヴィーナスの図像について『岩波美術館 歴史館第1室 形の誕生』高階秀爾著2002年刊)の9画像を見ていたようだ。(20210714記)

→次へ(テーマ館第2室

 


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