ギリシア史

唐草図鑑

ギリシア史の現在解釈

唐草の文化史

! ギリシアの歴史だが・・・
「C.1200ドーリア人ギリシアに侵入。ミケーネ文明を破壊する。」・・・と、年表に書いてある、ライフ人間世界史「古代ギリシア」
1976年の刊である。
ま、 「図版はいいが、解説の文章に今や価値はない」という意見が多い・・・ ・・ということで、おさらいです・・
桜井万里子編の『ギリシア史』(2005)

! まず、ギリシア人(ヘレネス)とは誰かということも問題で、それは「ギリシア語を話す人」とし、
「暗黒時代」(前1200年頃から前750年ごろまで)については、この20年程の間に飛躍的に理解が進んだとしている。

ギリシア人のアイディンティティ形声の要はホメロスの叙事詩の文字化であること。 (ミケーネ文明の崩壊で失われた線文字Bに代わるフェニキア文字を元に作ったギリシア文字による)
ビザンツは「自称ローマ人のギリシア人」のギリシア帝国であり、、東ローマ帝国=「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」だという・
(しかし、ギリシア人は3割だったという説もあるWikipedia20150924閲覧)
とにかく私の興味はミケーネ文明の崩壊・・・
以下、そのあたりの、ぬきがき読書

ギリシアの新石器文化は、栽培種の穀物類とセットで山羊と羊も
土器も含めて、完成された形態で西アジアから入ってきた(p018-019)

初期新石器時代から、土器の表面には様々な色調を呈するスリップ(釉)が施され、しばしば光沢を発するほど強い磨研が施されている。

中期新石器時代に入ると、器形に半球状の碗の他のレパートリーが加わり、地域色も豊かになった(p020)
セスクロ文化を特徴づける白色の木面に赤でジグザグ文様を描く土器や、
同じ時期のペロポネソス半島に普及した「新石器ウアフィルニス」と呼ばれる独特の光沢のある淡褐色の地に簡素なパタンを描いた土器は、この時期の製陶技術の高度な水準をよく示している。 

!セスクロ文化というとマリア・ギンブタスの・・(一時置き場にリンク)

テッサリアでは、後期新石器時代(ディミニ文化)になると彩文土器の文様がさらに複雑化するが、その幾何学的なモチィーフは同時代の織物のデザインに誘発されたものらしい。(P020)

! この個所の記述は・・・リーグルはやっぱり残念がるだろう。なにしろ、文様の発展はなにより、織物などの技術からじゃない、人間の芸術意志からだと・・

ギリシアの初期青銅器時代は前3200年ごろからで、
初期のグロッタ・ぺロス文化の代表的な副葬品には、羽状刻文の施されたピュクシスやヴァイオリン形の石偶等が含まれ、
より発達した段階のケロス・シロス文化になると、渦巻文で飾られた「フライパン」や各種の彩文土器があらわれる。

Wikipedia:キクラデス文化
前期キクラデスI期 (ECI)- グロッタ・ペロス(Grotta-Pelos)文化 前期キクラデスII期 (ECII)- ケロス・シロス(Keros-Syros)文化
キクラデス文明と同時期のギリシア本土の文化は、ヘラディックHelladic文化と呼ばれる


前2500年ごろを境とするその文化の後半に入ると、デパス・アンフィキュペロン(※)と呼ばれる土器などアナトリア的な文化が築かれる。
この文化(カストリ・グループ)は、かってはアナトリアからの人間集団がエーゲ海の初期青銅器文化を滅亡させたと考えられたこともあったが、墓域の状況から否定される。(p024)

※双手坏(二つの把手をもつ円筒形の盃)
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/4412/1/KJ00004312347.pdf
(この章を書いた、周藤芳幸教授のPDF)


ギリシア本土では、前2600年ごろまでに、コラクウ文化(ウアフィリス土器の存在を指標とする文化)が広がる・ギリシアにおける最初の都市化の時代であったが、
前2200年ごろ暴力的な破壊を受ける。
その崩壊層の上に、原ミニュアス土器と彩文土器を伴う新たな文化が確認される。
一般に中期青銅器文化から後期青銅器(ミケーネ)時代にかけての発展は連続的だったと考えられているので、
この前2200年ごろの崩壊層こそ「ギリシア人の到来」を示すものではないかという考えが有力視されるようになった。(p026)

コリントス近郊のコラクウ遺跡


クレタ島はこの時代やや周辺世界から孤立しており、は初期青銅器時代末期の崩壊の波を被ることがなかった。(p027)
前2000年期クレタ島、ミノア(宮殿)文明 1990年代のガラクス遺跡の発見 線文字A、宮殿=物資の再分配システムのセンター
前1800年ごろまでには完成の域に達していたカマレス土器(暗色地に白色やオレンジ色などで描かれた大胆で自由奔放な文様)(p032)

Kamares Style


前1709年頃はカマレス土器に代わり明色字に暗色で彩文を描くものが主体になり、宗教的な儀式に用いられるリュトンや、香油を詰めるのに用いられた鐙壺などの器形が現れた。

http://israelken.sakura.ne.jp/lowergalilee/Page16.pdf

鐙壺(あぶみつぼ)型http://www.tnm.jp//


前1700~前1500年ミノア文明の頂点(前1628年に起こったと推測され火山爆発で火山灰に埋没したアクロティリは情報源)

Wikipediaアクロティリ


ミノア文明期、ギリシア本土は文化的に低迷していた(遺物:ろくろによって成形されたミニュアス土器)
前1650年ごろミケーネ文明興隆(戦争に関わる遺物や遺構が多い)個人の墓(トロス墓)同時代の西アジアと肩を並べる初期国家へと接近しつつあった(p036)
1952年ヴェストリスが線文字Bの粘土板(宮殿への物資の出入りを記録したメモ)はギリシア語を表記していることを突きとめた(ミノア文明の線文字Aを改良したもの)

Michael Ventris Wikipedia
世界大百科事典:ミニュアス土器


「前1200年のカタストロフ」と宮殿社会の瓦解
かっては「ドーリス人」や「海の民」といった侵略者集団による破壊に帰する説が有力視されたが、現在はいずれの説も旗色が悪い
ギリシアだけでなく、東地中海世界の全域において、前1200年を前後する時代は危機と混乱の時代であった。
ヒッタイト帝国滅亡、エジプト新王国も衰退
過度に複雑化した再分配システムの行き詰まり
ミケーネ文明の世界では、同時代の西アジア初期国家における社会的結合との核となっていた王の絶対性を担保する表象の体系を整備できなかった
見方によっては、ギリシアは東地中海世界の中で、「前1200年のカタストロフ」から最も恩恵を被った地域と言える。
これに続く時代に東方からの影響が一時的に途絶した結果、ギリシアは挫折したミケーネ文明の伝統を乗り越えて、新たな社会構造の確立を模索することができたからである(p042)
諸宮殿が崩壊したのちも、ミケーネ土器の彩作伝統をとってみても、前12世紀の中ごろに流行した「密集様式」などは、依然として極めて高い質を誇っている

Closed Style


前11世紀の後半におかれる初期鉄器時代の最初の段階は、亜ミケーネ期と呼ばれる
前10世紀になると、ギリシアには火葬が普及するようなった。 アテネでは火葬骨は灰とともに大型の土器(アンフォラ)におさめられて 埋められうようになる。
原幾何学文様期というこの時代の呼称は、このアンフォラのような土器が、同心円文など簡素で幾何学的な文様で飾られていることに由来している。
頸部に縦位に把手のつくものが男性用、腹部に横位の把手のつくものが女性用というように性別によって規定されていた。(後代のジェンダーの区別の萌芽)(p045)
1980年発見 前10世紀のレフカンディのへローン(英雄廟)・・人類学でビッグマンと呼ばれる在地有力者の居館

前9世紀から8世紀、懸垂半同心円文でかざられたエウボイア系のスキュフォス(杯)は、東方との交易が再び盛んになったことを物語る(p047)

初期ギリシア史の最大の転換は、前8世紀に訪れた(前8世紀のルネサンス)
そのことを誇らかにつけているのが、民族の正典ともいうべきホメロスの二つの叙事詩の誕生
(叙事詩の成立と民族意識の生成、更には国家の成立との間には、通文化的に密接な関係が認められる) 文字・大規模な建築物、都市の復興(p047)
フェニキア人との接触により、口承によって伝えられてきた叙事詩をホメロスの作品として固定 した

meリーグルのアッチカ初期様式の話が 短いので、そのあたりにも関係する 「ギリシアの暗黒時代」というのは今はどういう解釈になっているのか、Wikipediaおさらいしたのは以下。

Wikipedia: 前1200年のカタストロフ

前1200年のカタストロフとは地中海東部を席巻した出来事のこと。
この出来事の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより青銅器時代は終焉を迎える事になり鉄器時代が始まった。
そしてその原因は諸説あるが、この出来事の発生により、分裂と経済衰退が東地中海を襲い、各地において新たな時代を生み出す[ロバート・モアコット著 青木桃子訳 桜井万里子監修 『古代ギリシア地図で読む世界の歴史』 河出書房新社、2004年]。

紀元前1200年頃、環東地中海を席巻する出来事が発生した。現在、「前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については結論を得ていない。

これらには諸説あり、気候の変動により西アジア一帯で経済システムが崩壊、農産物が確保できなくなったとする説、エジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが密接に関連していたが、ヒッタイトが崩壊したことでドミノ倒し的に諸国が衰退したとする説などが存在する。地震によって崩壊したとする説は環東地中海全体の崩壊ではなく、特定の国にのみ考えられており、少なくともミケーネ時代のティリンスではドイツ考古学研究所 の調査によれば激しい地震活動が発生したことが確認されている[モアコット]。 この災厄についてフェルナン・ブローデルの分析によれば ヒッタイトの崩壊 エジプトにおける海の民の襲撃 ギリシャのミケーネ文明の崩壊 気候の変動 以上の4項目に分けることができる。また、このカタストロフを切っ掛けに東地中海に鉄が広がることになる[フェルナン・ブローデル著 『地中海の記憶先史時代と古代』 藤原書店、2008年]。

※エジプトにおける海の民の襲撃は否定的になっている。

Wikipedia:暗黒時代(古代ギリシア)

暗黒時代とは古代ギリシアにおける紀元前1200年から紀元前700年頃までの間における文字資料に乏しい時代のこと。ミケーネ文化、前古典期(アーカイック期)の間にあたる 。
また、この時代のうち前1059年から前700年頃は土器に幾何学文様の描かれたことから幾何学文様期と呼ばれる事がある。 また、暗黒時代と呼ぶ事が不適切として初期鉄器時代と呼ばれる事が普及しつつある。

前1200年のカタストロフを迎えた環地中海地帯は低迷期を迎える。特にギリシャの衰退は激しかった。それまで使用されていた線文字Bは忘れ去られ、芸術品、壁画、ありとあらゆる文化的なものが失われ、それまで華やかであった土器も単純な絵柄である幾何学文様と化した[ブローデル]。

アッティカは亜ミケーネ文化がミケーネ文化と平行しており、土器の形状自体はミケーネ土器に遡る事ができる。しかし、その文様は幾何学的なものと化しており、この亜ミケーネ文化が原幾何学文様期へと受け継がれる。また、それまで葬制は土葬であったが、原幾何学文様期になると火葬した上でアンフォラ(壺)に収められた上で埋葬されるようになった。また、アンフォラは男性の場合は肩部に縦の取っ手が付いており、女性の場合は腹部に横向きの取っ手が付くという違いが見られる。[周藤芳幸著 『世界の考古学3ギリシアの考古学』 同成社、1997年]

幾何学文様期
暗黒時代の時代観はアテナイの墓域であるケラメイコス での発見を中心に構築されており、これに他の場所を当てはめることにより構築されている。しかし、アッティカにおける文化変化はこれに必ずしも一致しない。

この幾何学文様期はコールドストリーム(J.N. Coldstream)の主張する編年体によれば初期幾何学文様期(初期、中期、後期)、初期幾何学文様期(前期、後期)、中期幾何学文様期(前期、後期)、後期幾何学文様期(前期、後期)に分けられているが[ロバート・モアコット著 青木桃子訳 桜井万里子監修 『古代ギリシア地図で読む世界の歴史』 河出書房新社、2004年]、
これは積極的根拠があるわけではなく[周藤芳幸著]、アッティカにおける土器の様式の変化に伴うものであって絶対年代の幅を表しているものではないため、他の地域ではこの文化層が発見されないことがある[周藤芳幸著]。

John Nicolas Coldstream,(1927– 2008)
Greek Geometric Pottery: a Survey of Ten Local Styles and their Chronology (1968).

また、幾何学文様期の文化層が発見されるのかアッティカを含めてドーリア人の南下ルートから離れており、幾何学文様はドーリア人らが持ち込んだものではなく何らかの社会構造変化に伴い生まれたものと推測されている[ピエール・レベック著 青柳正規監修 『知の再発見双書 18ギリシア文明神話から都市国家へ』 創元社、2000年]。

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