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中国の神話・伝説

me『中国の神話伝説』
(袁 珂著, 鈴木 博 訳– 青土社1993/4/1刊)

『中国の神話伝説』

『中国の神話伝説』目次 |まえがき
序論篇| | 開闢篇| 黄炎篇| 尭舜篇| 羿禹篇| 夏殷篇| 周秦篇|
中国年表と漢籍索引

伏羲

me漢代以前の古書の記述では、伏羲と女媧には何の関係もない、と『中国の神話伝説』開闢篇第四章p119にあり。
ここで、伏羲単独について、まず、袁 珂著の『中國神話伝説大辞典』(1999 大修館書店刊 鈴木 博訳)の伏羲の項を見ておきます。


伏羲

ふっき 【伏羲】 五帝の一人。
『世本』 (清代の張澍ちょうじゅ稡集そっしゅう補注本) 「帝繫ていけい」に「太昊たいこう 伏羲氏」とあり、伏羲が太昊伏羲であることが分かる。「太昊」と 「伏羲」の連称はここから始まる。
しかしながら、古書では太昊は「大昊」、「大皞」 、「太皞」とも書かれ、伏羲も「宓羲ふっき」 、「庖犠ほうぎ、「伏羲ふっき」、「炮羲ほうぎ」とも書かれている。

張 澍ちょう じゅ(1781- 1847)は、清代の考証学者(張澍―wikipedia
张澍 - 百度百科「失われた作品の編纂作業を行った。魯迅は、この分野で张澍から深い影響を受けた学者の一人である。」

me稡集そっしゅう補注本というものを念のため確認したかったが、見当たらない・・ しかし、『世本せほん』の方は、開く解説される文献であった・・。
失われた作品・・ 『世本』、『三府覚呂』、『三秦記』、『三府九史』、『三府固史』、『無量九文』などが、いずれも周、秦、漢、隋、唐の時代に書かれたもので、後世には失われていたものであった。

世本せほん』は、古代中国に存在した系譜・歴史書です。現在は原本が失われていますが、後世の歴史書などに引用された断片(逸文)が現在に伝わっており、古代中国の伝説・歴史研究における貴重な資料となっています。

主な特徴と内容概要: 三皇五帝の伝説の時代から春秋時代(紀元前8世紀〜紀元前5世紀)に至るまでの、帝王・諸侯・けい大夫たいふの系譜、姓氏、居所、おくりななどを記録したものです。
起源の記録: 人物だけでなく、道具や制度、文化などの「発明者」や「由来」についても記されており、古代中国における事物の起源をまとめた書物でもあります。
成り立ち: 漢代以前の古史官の記録をもとに、前漢の劉向りゅうきょう が整理・編纂したとされています。

「現状と研究原本は西晋の時代以降に散佚さんいつしてしまいましたが、後漢の応劭おうしょうの『漢書』注釈や、唐代の司馬貞しばていの『史記索隠』などに引用された断片が数多く遺されています。

これら引用文を清代の学者たちが集めて復元したものが、現在利用されている『世本』の輯本しゅうほんです。
代表的なものとして『世本八種』などがあり、先秦時代の歴史研究には欠かせない基本文献の一つとなっています。

世本―wikipedia
本書の特徴は氏姓の来源や居住地、器物の由来といった従前の史書にない社会的文化的事象への関心が見える点と、その関心に沿った分類を行う事で読者に比較推論の便を与える書ともなったであろう点とにあるとされるが、その他、「作篇」に見える文化英雄の創造発明譚や古代帝王の系譜等に誌される内容がまま「神話なき国」と呼ばれる中国の失われた神話の断片と認められるので、「隠された」乃至は「枯れたる」と評せられるその神話の原姿を復元する一資料ともなっている。 (鈴木博「主要文献解題」(袁珂(鈴木訳)『中国の神話伝説』付録2)、青土社、1993

me以下、袁 珂著の『中國神話伝説大辞典』の伏義の項を続けます。


  前漢代初期の『山海経』「海内東経」 )に「雷沢のなかに雷神がいる。体が龍、頭 が人で、自分の腹を叩いている」、 北宋代の季叻りほう(925-996)ら編の『太平御覧』巻78に引 く『詩緯含神霧」に「大きな足跡が雷沢にあ った。華胥かしょがその足跡を踏んで伏義を生んだ」とあるので、伏義はおそらく雷神の子であろう。

雷神

meこの図は、漢代の石刻図の雷神であるというが、開闢篇第一章の「混沌」で見た「燭竜」神に似ている・・ しかし燭竜と違い、3本指の手足がある
・・(雷神については後程また・・・」)


伝説中の伏羲は「蛇の体、人の顔で、聖徳があり」(唐代の司馬貞が前漢代の『史記』に 補った「三皇本紀」、
「方形の壇の上 に坐り、八風の気を聴き、八卦を画し」(「太 平御覧』巻九に引く東晋代の『拾遣記』)、
「蜘 蛛を手本にして網を発明し」(東晋代の「抱 朴子ほうぼくし」「対俗」、
しつ (大型の琴)を作り、「駕弁」を作曲し」(前漢代の『楚辞』所 収の「大招」)、
「婚礼の制度を定め、儷皮れいひ (雌雄一対の鹿の皮)を結納の品とし」(南宋代 の『路史』「後紀(一)」の注に引く三国時代 の『古史考』)、
「犠牲を取って庖厨ほうちゅうにあ て」(「太平御覧」巻78に引く『皇王世紀』)ている。
これらは、いずれも人としての伏羲であるように思われる。

神としての伏羲は天梯てんてい の建木で天に昇ることができる。
前漢代の劉安(前179-前122)の『淮南子』「墜形調ちけいくん」に、 「建木は都広山にあり、ここから諸帝が上り下りする。
そこでは、日が真上を通過するときに影が出 来ず、声を出しても響くことがない。おそら く、天地の中央なのであろう」とある。

都広の野とこうのや:中国の最古の地理書『山海経せんがいきよう』に記された伝説の地。西南の黒水(現在の四川省周辺)の間に位置し、天地の中心とされる楽園です。ここにそびえる巨木が「建木けんぼく」で、天と地とを結ぶ架け橋(宇宙樹)とされています

「山海経」「海内経に、「南海の外、 黒水と青水の間に、⋯⋯木がある。⋯⋯建木 という。⋯⋯大峰がこの木のところを通り、 黄帝が治めたものである」とある。「大皞がこ の木のところを通る」というのも、建木を上 り下りすることである。伏羲の神性は明らか である。

また、「礼記」「月令がつりょう」に「孟春 の月(一月)。⋯⋯天帝を太皞とよび、その下にある神は句芒こうぼう である。

『淮南子』「時則訓」に「東方の極は、碣石けっせき山から朝鮮を 過ぎ、大人の国を通って、東方の日の出の場 所、榑木ろぼくの地、青丘の樹木の野に至る。
そこは太嗥と句芒のつかさどる土地で、一万 二千里ある」とあり、後漢代末期の高誘が「太 嗥は伏羲氏で、東方の木徳の帝である。句芒 は木の神である」と注を付している。
伏羲は五帝のうちでは東方の天帝である が、それは神としての職務にほかならない。

伏羲女媧廟ふっきじょかびょう】 ふっきとじょか【伏羲と女媧】

https://baike.baidu.com/伏羲 から
伏羲寺 または人類祖廟

山东省济宁市邹城-凫山羲皇庙遗址
山東省に現存する最大かつ最古の古代建築遺跡であり、中国文明の伝説的な祖先である伏羲と女媧を祀っている。

中国文明史における重要な文化的ランドマーク

伝説によると、伏羲は人類史上最初の皇帝だった。彼は洛陽の蒙津で図を運んでいる龍馬に出会い、占いのために八卦を作ったという。こうして文字の始まりとなった。これにより、結び紐を使って出来事を記録するという歴史は終わりを告げた。

秩序と原理の確立の確立

伏羲は鳥を捕獲したり狩猟をするための網を作るためにも紐を結び、人々に漁や狩猟の方法を教え、琴を発明し、旋律を作った。

伏羲は龍をトーテムとして用いて様々な氏族や部族を統一し、大規模な民族統合を行い、龍を中国民族のトーテムおよび独自の精神的シンボルとし、多様な中国文明と中国民族の統一のシンボルとした

伏羲
伏羲、南宋代後期 馬麟 (画家)
 開闢篇第四章 p121
「足元に八卦が見える」という説明だが、亀は見えるが・・?

亀甲きっこうと八卦の起源
古代中国では、亀の甲羅を焼いてひび割れの入り方を占う「亀卜きぼく」が行われていました。また、神話では伝説の帝・伏羲 が、黄河から現れた背中に不思議な模様(河図洛書・亀書)を持つ亀の甲羅を見て、宇宙の法則である八卦を編み出したとされています。


まだある伏羲の聖地

天水伏羲廟
伏羲城西大门 - panoramio

甘粛省天水市「伏羲寺(伏羲廟)」 明の弘治3年(1490年)頃に創建、保存状態の良い壮大な木造建築群、中華民族の始祖とされる「伏羲」を祀る中国最大の建築群。

伏羲台 「羲皇聖里」


河北省石家荘市新楽市
新石器時代の伏羲氏が住み生きた場所


伏羲山

河南省鄭州市
伏羲山は中華文明の発祥地であり、人文の始祖である伏羲と女媧がここで姓氏を正し、八卦を演じ、嫁娶を定め、中華文明を開いたとされる。

太昊陵庙  河南省周口市
午朝门 - panoramio

me中国広いので、聖地はいくつもあるようですね・・・
なお、 伏羲の母の華胥かしょ氏の国は伝説上の国で、西北の果て行きつくことのできないほど遠方にある楽園のような国という。(『中国の神話伝説』開闢篇 第四章 上p116)


第四章

華胥かしょ氏の国
雷沢の巨人の足跡
さまざまな天梯
都広の野の建木
木神と生命神を兼ねる句芒こうぼう
伏羲の創造と発明
「木をこすって火を取る」古い伝説
伏羲

me 伏羲(ふっき)が手に持つ代表的な持ち物は、L字型の定規である「」(曲尺、「地(四角)」を象徴)ということだが、この伏羲ページ冒頭の石刻図はブン回しと太鼓・・・、ブン回しといってもコンパスではなく、太鼓もあるので、大道芸の皿回しのように見える(;^_^A
一方のこちらは、なんであるか。四角でなく丸い・・・
伏羲と女媧コンビの場合 建築の四つの道具:規矩準縄のうちの二つを持つ。(女媧の持つ「規」は円を描くときに使うコンパス。伏羲の持つ「矩」は長さを測るための指矩。)
こちらの 石刻図については少しおいておきます。
また伏羲が太昊伏羲を名のるとき、角を持つことについて、その図をさらに見てみたい。右矢印fukki-taikou.html


伏羲の最大の貢献

火種をもたらし、焼いた動物の肉を食べえられるようにして、胃腸病にかかったり下痢になったりしないようにしたことであろう (p122)
伏羲は神話では雷神の子ともであるが、春を管理する東方の大帝でもあり、木の成長と密接な関係がある。


「木をこすって火を取る」発明の古い伝説

太古代、西方の遠隔の地に 遂明すいめい国という国があった。太陽と月の光が全く届かない地で、「遂木」といきわめ付きの大木があった。根と枝葉が うねり、一万頃(7万ヘクタール)の地を占めていた。
その大木のいたるところで珍珠や宝石のように美しい光がきらめき、人びとはその光の中で暮らしていた。

旅人が光の源を探ると、なんと、みさごのような姿 をした、爪が長く、背が黒く、腹が白い大きな身 て堅いくちばしで木の幹を突っついており(幹に巣 食っている虫を食べていたと思われる)、幹を突く瞬 まばゆい光が発する。
その光景を目にするや、聡明な旅 人は火をおこす方法を思い付いた。そして、遂木の 折って、小さな枝で大き枝な校をこすると火がついたが、 残念なことに、木をこすっておこした火は単なる火花に すぎず、炎がなかった。その後、別の木の技で試すと 遂木よりも力を入れなければならなかったが、しばらく こすり続けていると、まず煙がのぼり、ついで火が 枝が燃え上がり、ほんとうの火を手に入れることが た。
旅人は自分の国に帰り、木をこすって火をおこす方 法をみんなに教えた。
人びとは、発明者に感謝の念を抱いて 「燧人すいじん」(火をおこす人)とよんだ。(p124)

燧人氏―zh.wikipedia旧石器時代に河南省河套地域付近に住んでいた氏族。『太平玉蘭』第869巻
燧人氏―(wikipedia)「中国の伝説上の氏族で、火を発見したとされ、商丘は燧人氏の都であることから、商丘は「火文化の郷」と呼ばれている。燧人氏は商丘に葬られ 、「燧皇陵」が造られていたとされる。」「古国時代において帝王として君臨した大伏羲氏(伏羲女媧政権)や炎帝神農氏、黄帝有熊氏らはこの子孫とされている。」

http://flamboyant.jp/草野巧 中国神話伝説ミニ事典 『史記』に見る古帝王の系譜史

伏羲の補佐

句芒

Goumang
Goumang from the Sengaikyōzon (山海経存, Shan Hai Jing)

句芒―wikipedia 
中国古代神話における春神・木神・東海の神・東方の神で、 草木の生長と農事を司り、伏羲に補佐して扶桑の神樹と日出の地を治め、 五行官の木正に列せられた。
其の姿は『山海経』に「鳥身で人面、双竜に乗る」と記され、 東漢の鄭玄の注釈には少昊氏の子とされる。

天梯

天梯には二種類ある・・・ 一つは山、一つは木であり、ともに人力によらず、自然に成長するものである.

天梯は、われわれが壁を登ったり屋根に上がったりす るのに使うような、人が造る梯子はしごではない。天梯には、 二種類ある。一つは山、一つは木であり、ともに人力に よらず、自然に生長するものである。古代の人びとのあ たまは単純かつ素朴であって、神人や仙人が「天に上下 する」ことができるのは、「雲に騰り霧に駕る」などと いうことではなく、きわめて着実に山や木を伝って一歩 づつ登ったり下りたりするのだと考えていたのである。(p117)

天梯の性格をそなえている山ば、昆侖山のほか に、華山の青水の東の肇山がある。仙人の柏高が住んで いて、この山を伝って天に昇るといわれている。
さらに、 西方の荒野にも登葆とうほう山があって、巫師たちが天庭とのあ いだを上下往来して、神旨を下達し、民情を上申する仕 事をしているという。

建木けんぼく

天梯の性格をそなえている木は、いまのところ、建木 しかわかっていない。
北海の外の三桑や尋木、東海の外の扶桑、西方の荒野の若木などは、いずれも高さが数十 丈、数千丈から数千里もある大木であるが、古書には天 梯の性格をそなえているかどうか明記されておらず、断 言しがたい。たしかに天梯の性格をそなえているのは、 いまわかっているかぎりでは建木しかない。

天梯の性格をそなえている非常に背の高い建木は、そ の楽園の中央にはえている。楽園そのものが天地の に位置しているので、この天梯は天地の中央の中央に位置していることになる。 (p119)

建木 古代の先住民が崇拝した聖なる樹の一種―BaiduWiki 
三星堆遺跡 から出土した青銅神樹は、枝葉や吊り下げられた龍などの要素を呈しており、学界ではその原型が建木と関連がある可能性が推測されている。ドイツ・ハイデルベルク大学のロタール・レッダーローズ教授は、三星堆の青銅神樹などの文物は古代蜀人の精神世界を反映していると考えている。

建木は上古の先民が崇拝した聖樹の一種であり、その形態は青い葉と紫色の茎を持ち、果実は麻のようで、樹下には影も音もなく、天地と人神を繋ぐ橋として見なされていた。『山海経・海内南経』『 呂氏春秋 』『 Huai Nan Zi 』には、それが「都広之野」に生えていたと記されており、 Ba Shu の地域文化と密接に関連している。

建木―wikipedia
建木・扶桑・若木の三本のなかでも特に建木は、天地の中央に位置し古代の神・帝たちがそれをつかって往来をしたと考えられる記述がある点から、天梯(てんてい。天と交通するためのはしご)、通天柱(つうてんちゅう。天と交通するための柱)としての要素が大きく持たれていたものと見られている。

しかし、文字表現などの上では「扶桑」の語が後の時代は多用されており、その要素の多くは扶桑へと集約されていったようである。

1452夜 『四川と長江文明』 古賀登 - 松岡正剛の千夜千冊 著者:古賀登 都広の野 ―四川と長江文明

都広の野とこうのや

建木は、西南の都広の野にある。そこは天地の中心と いわれている。ほんとうにいいところで、百穀が自然に 生長し、夏でも冬でも種をまくことができ、出来る米、 黍、豆、麦は白く滑らかで、まるで上等の脂肪のようで ある。
驚鳥がうたをうたい、鳳凰が踊りを舞い、さまざ まな鳥や獣が集まり、草木が冬でも夏でも青あおとして いる。
もう一つ、竹のように節のある「霊寿」という木 がある。芳香を発する美しい花が咲き、その堅い茎は老人用の杖にすることができる。
都広の野は、地上の楽園と ということができる。
現在の四川省成都市のことだとい う人がいるが、方角や描かれている風景からみて、おそ らくそうであろう。(p118)

meまた別の聖地です・ ・・四川省成都市といったら、三星堆遺跡・・なのでうれしい・・ 「市区北側30キロの広漢では、薄らな青銅製の仮面よりも揺銭樹で人気な数千年前の割拠の遺跡である三星堆遺跡が発掘されている。」(wikipedia

me 「揺銭樹」この語は初見である・・あの神聖な青銅神樹であると思っていたら、ちょっと違うこんな解説で・・
なるほど中国って(;^_^A 侮れないですね・・

揺銭樹ようせんじゅとは、中国の伝統文化において「お金のなる木」や「富の象徴」を意味する架空の樹木です。古代の副葬品から、現代の縁起物まで、時代によって異なる形で親しまれてきました。

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