『中国の神話伝説』
(袁 珂著, 鈴木 博 訳– 青土社1993/4/1刊)
『中国の神話伝説』目次
|まえがき
| 序論篇|
| 開闢篇|
黄炎篇|
尭舜篇|
羿禹篇|
夏殷篇|
周秦篇|
|中国年表と漢籍 |
索引|
このページでは、『中国の神話伝説』黄炎篇の第1章を丁寧に読みます。
本篇で主に検討するのは、黄帝と炎帝との戦争である。
しかし、その戦争を検討する前に、両者の情況をそれぞ
れ検討しておかなければならない。
まず、炎帝神農について。炎帝はもともときわめて慈
愛あふれる大神であって、おそらく黄帝よりはるかに多
く「仁道を行っ」たであろう。
炎帝がこの世に現れたとき、大地の人類はすでに非常にふえており、自然に出来
る食べものだけでは足りないので、仁愛に満ちた炎帝は
人類に、どのように五穀の種をまき、自分の労力で生活
のかてを手に入れるか教えた。
そのころは、みんないっしょに働き、たがいに助け合い、奴隷も主人もなく、採集集した果実はみなで平等に分け合い、兄弟姉妹のよう
仲むつまじく暮らしていた。
また、炎帝が太陽に光と熱を充分に出させ、五穀を生長させた。
それ以来、人類は
衣食の心配をする必要がなくなったので、みな炎帝の功徳を記念して 「神農」という尊称でよぶようになった。
炎帝は牛頭人身といわれているので、おそらく、数千年
にわたって農耕に大きな役割を果たしてきた牛と
うに、特に農業面で貢献したのであろう。
太陽神で農業神を兼ねる炎帝が生まれるや、まったく人力をついやすことなく、生誕地の周囲に自然に井戸が
九つ湧き出し、しかも、それらの井戸の底がたがいに通
じ合っていて、どの井戸の水を汲み取っても他の八つの
井戸が波だったという。
また、人類に五穀の種をまくこ とを教えたとき、天空から穀物の種がたくさん降ってき たが、それらの種を集めて開墾しておいた畑にまいたの で、それ以来人類の食用に供する五穀がつくられるよう になったともいう。
さらに、もっとうるわしいはなしも ある。五穀の種をまくことを教えたとき、全身がまっ赤 な鳥が穂が九本ある苗をくわえて天空を飛んでいたが、 その穂から地上に落下した穀粒を炎帝が拾って畑にまく と、高大な嘉穀に成長したので、人類がそれを食べると、 飢えが満たされただけでなく、長生不死になったという。
そこれらの伝承は、要するに、神農時代の人びとがすでに 穀物を栽培することを会得していたことを意味している。
炎帝は、農業の神であるだけでなく、医薬の神でもあ
る。健康の源泉は太陽であるので、太陽は医薬とも関係
がある。
炎帝が「
赭鞭」 という神鞭でさまざまな薬草
をひとたたきすると、有毒か無毒か、寒か熱かなど、薬
草のさまざまな性質が明確になるので、その性質にもと
づいて人びとの病気を治したという。
また、みずから薬
草をなめて性質を見極めていたが、そのために一日に七
十回毒にあたったともいい、さらに、猛毒のある 断腸草
をなめたため、腸が切れ、人類のために生命を犠牲にし
たという民間伝承もある。
現在、人びとは塀や垣根を伝
って黄色い小さな花を咲かせる藤のような植物を見かけ
ると、神農皇帝を殺害したほどの猛毒があることを知っているので、警戒する。
これらの伝説にどのような違い
があろうと、人類に大きく貢献した大神の炎帝の精神は、
けっして忘れ去られることはない。
それゆえ、炎帝の医
薬面での功労に関する後世の伝説には、「薬を嘗めた」
と「薬を鞭った」が共存している。
山西の太原の神釜岡
には神農が薬をなめた鼎があるという。
また、成陽山に
は神農が薬をたたいた場所があり、神農原とも薬草山と
もいう。
太陽神の炎帝は、人類が衣食は満ち足りたものの、生
活がまだ不便であるのを目にして、人類に市場をつくら
せ、必要なものをたがいに交換させた。
当時は、時計が
なく、時刻を知る他の方法もなかったのに、交換する時
間をなにによって定めたのであろうか。
人びとは、仕事を投げ出して一日中市場で待っているわけにはいかない。
こうして、炎帝はまたも人びとに自分自身――あるいは、
自分の管轄下にある太陽――を基準とし、太陽が真上に
来たら取引を行い、その時刻を過ぎたら市場を閉じるこ
とを教えたが、実行すると正確で便利でもあったので、
みなとても喜んだ。
太陽神の炎帝自身についての神話は、今日まで残って
いるものは少なく、これまで述べてきたような断片的で、
歴史的要素がまざっているものしかない。
むしろ、子孫、
とりわけ娘についての神話におもしろいものがある。
伯陵という孫は、美しい人間の女性、呉権の妻である 阿女縁婦と愛し合い、しかも関係をもったため、 阿女縁 婦は三年間みごもったすえ鼓、延、殳という三人の子ど もを生み、殳が弓矢の的を作り、鼓と延が「鍾」という 楽器をはじめて作り、またさまざまな歌を作ったので、 音楽がこの世にいっそうひろまったが、延と殳がどうい う姿をしていたかは伝えられておらず、鼓は頭がとがり、 鼻が上を向いていたという。 地上の互人の国の人は人面魚身 で、開闢篇第十一章で検討した人魚に似ているところ があり、腰から下は魚の姿をしているものの、手はあるが足はなく、雲や雨に乗って自由に天に昇ったり地上 に下ったりすることができ、炎帝の嫡系の後裔であるという、
炎帝の子孫で有名なものに、前述した火神の祝融のほ かにも、水神の共工、土神の后土、年を十二個生んだ時 間の神の噎鳴⋯⋯などがいる。 これら有名な子孫を擁していることから、太陽神としての炎帝がいかに赫々 大神であったかがわかる。
炎帝には娘が四人いたが、それぞれ相異なる運命をた
どったといわれている。
まず、そのうちの一人について検討しよう。その娘に
は名前がなく、炎帝の「少女」とだけよばれている。
しかし、伝説では他の三人の娘も「少女」とか、「季女」
とか、単に「女」とよばれているが、「季女」とは「少
少女」とか、「季女」
単に「女」とよばれているが、「季女」とは「少女(
末娘)」という意味にほかならず、だれが姉で、だ
妹であるのかはっきりしない。
おそらく、いわゆる「少女」は若い娘の総称にすぎず、かならずしも末娘の
こではないのであろう。
ここではそのことにかかわる必要がないので、とりあえず、名前のない炎帝のこの娘
かどのようにして古代の有名な仙人に従って登仙したかについて検討しよう。
その仙人は、赤松子といい、炎帝のときに雨を司る官
をつとめ、いつも「水玉」という貴重な薬物――つまり
水晶―を食べてからだを鍛えていた。
からだのあちこ
ちを焼いて鍛え、特殊な技、つまり、大きな火のなかに
跳び込むことができる技を鍛え、自分で自分を焼いた。
燃えさかる烈火のなかで、赤松子自身のからだが上
煙とともに上下し、ついに完全に新しく生まれ
て仙人になった。
仙人になると、崑崙山に行き、西王母
かつて住んでいた石室に住み着いた。
風が吹いたり雨
が降ったりすると、からだが非常に軽い赤松子は風雨に
合わせて高山の懸崖との間を往来した。
名前のない炎帝
の例の娘も、仙人になろうとして赤松子のところにやっ
て来て、おそらく、からだを焼いたり、水玉を食べたり
してからだを鍛え、赤松子と同じように仙人になるとと
もに、赤松子といっしょにはるか遠隔の地に行ってしま
ったのであろう。
炎帝の他の娘も名まえがないが、そのうちの一人 書では「赤帝女」とよばれている。「赤帝女」とはもち ろん「炎帝女」という意味にほかならない。 (p179)
赤帝女は仙に人なる方法を身に着け、南陽の愕山の桑の木に止まり、 正月の元旦になると、木の小枝をくわえてきて巣作りを 始め、半月間苦労したすえ、十五日に巣が完成すると、 そこに住み着いて二度と地上に下りようとせず、白い鵲 に化したり女性の姿のままでいたりした。
娘のこのような奇怪な行動を目にして、炎帝は非常に心を痛め、
いろな手段で木から下ろそうとしたが、いずれも成功しなかった。
その後、思いきって桑の木の下で火を燃やし、
脅して木から下ろそうとしたが、あにはからんや、若い
娘は炎と煙に取り巻かれつつ血肉を脱し、赤松子を追っ
て「火に入りて自ら焼い」た姉妹と同じように、ゆっく
り天空に昇っていった。
二人の姉妹は同じように焼身登 仙したが、赤帝女の焼身登仙はひとの助けをかりていた。 のちに、その桑の木は「帝女桑」と命名された。
この帝女桑は、
『山海経』の「中山経次十一経」に書かれてい
る「帝女の桑」にほかならない。
この記事によれば、周囲五丈もある桑の大木で、枝が交錯しつつ四方に伸び、
葉が一尺余りもあり、木目が赤く、黄色い花が咲くが、
その蕚は青い。
周囲五丈という太さから推定すると、高さが百丈を下まわることはなく、
奇怪な大木であることはいうまでもない。
百度百科
ていじょそうは中国古代神話に記録された神秘的な桑の木であり、最も早く『 山海経 』に見える。この木は、炎帝の次女が修行して仙人になり、その上に止まったことにちなんで名付けられた。その幹の太さは約15メートルに達し、樹体には赤色の紋様があり、黄色い花を咲かせ、青い萼を持ち、枝は四方に伸びる。『広異記』によると、赤帝の女が桑の木の上で修道中に火に焼かれて昇天した。
その後、この桑の木は「ていじょそう」の名を与えられ、上古の桑樹崇拜体系の重要な構成要素となり、扶桑、空桑などとともに神話植物系譜を構成している。
炎帝 の血統によって付与された神聖性
炎帝女が桑の大木で焼身登仙したの
ち、つぎのような風習が生まれた。
つまり、正月の十五日に木から鵲の巣を取ってきて燃やし、
その灰を水に溶かし、蚕の卵を一定の時間ひたすのであるが、
そうする
と、その卵からかえった蚕はいい糸をたくさん吐くとい
われている。
こうなると、単に炎帝の娘だけでなく、あとで検討する蚕馬にも関係のある神話になってくる。
炎帝にはもう一人、 瑤姫という娘がいたが、嫁ぐべき 年齢になってまもなく、嫁がぬまま若死した。 この情熱的な娘の霊魂は姑媱の山に行き、䔄草に化した。 この䔄草は葉が折り重なるほど密生し、黄色い花が咲き、 菟糸のよう な実が実るが、この実を食べた人はひとに愛されるという。
媱• 音: ヨウ • 訓: みめよい、たわむれる
Aomorikuma's Original Photo,
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天帝は瑤姫の若死をあわれんで巫山に封じ、巫山の雲雨の神にした。
朝は美しい雲になり、山嶺と峡谷の間を
気ままにのんびりと漂い、夕暮れになると篠突く雨になって、山や川に自分の悲しみを吐き出した。
戦国時代末期、楚の懷王(在位前三二九〜前二九九)は霊夢に遊び、 「高唐」という台館に泊まったが、この情熱的でロマン ティックな女神は、昼間みずから高唐にやって来て、 昼寝をしていた懷王に自分の思いを洗いざらいぶちまけた。
楚の懐王(かいおう)(wikipedia) 暗君の代名詞
懐王は目がさめてから夢のことを思い出し、がっかりもし、奇妙にも思い、
高唐の近くに廟を建立して「朝雲」と名づけた。
その後、懐王の子どもの襄王(在位前二九九〜前二六三)も
御前詩人の宋玉といっしょに雲夢にやって来たが、宋玉から父親のことを聞かされ、
うらやましくなった。
その夜、宋玉も同じように奇妙でがっかりさせられる夢をみたので、
翌日、襄王に知らせるとその二つの奇妙な夢を二つの賦に詠じるよう命じられた。
「高唐の賦」と「神女の賦」である。
後世の詩文に典故として引用される「襄王の夢」は、 実際には古書の誤字のもたらした誤りであり、 襄王と巫山の神女とはなんの関係もない。
瑤姫についてはもう一つ、神話伝説がある。つまり、
禹の治水をいかに援助したかというはなしである。雲華
夫人は、名を瑤姫といい、西王母の二十三番目の娘であ
った。
修行を終え、東海への旅行から戻る途中、巫山を
通り、幽麗な山嶺、森林、渓谷に魅せられ、巫山に落ち
着きたいと思った。
おりしも、禹が治水工事を行うため
巫山の山麓に留まっていたが、突然、猛烈な強風が吹いて、山や大地を揺るがし、樹木や岩石を吹き飛ばし、制止しようとしても制止できず、工事ができなくなったの
で、雲華夫人に援助してくれるよう頼むしかなかった。
そこで、夫人は禹に神を呼び寄せて鬼をむちうつ法術を
伝授するとともに、自分の属神である狂章、虞余、黄魔、
大翳、庚辰、童律らに禹の治水を手伝わせた。
まもなく、
強風がおさまり、巫峡が貫通し、治水が順調に進んで一
段落したので、巫山に登って夫人に礼を言おうとした。
あにはからんや、高い断崖に立ってうかがっていると、
夫人は石に化したり、四散して軽い雲になったり、集ま
って暮雨になったり、そうでなければ、遊竜に化したり、
飛翔する白鶴に化したり⋯⋯要するに、千変万化要するに、千変万化してと
らえどころがなかった。
人をたぶらかすような夫人を見
ているうち、ほんとうに神仙なのかと疑い始め、その疑
問を童律に質すと、雲華夫人はもともと腹から生まれた
のではなく、西華の少陰の気が凝集して出来ているので、
いつもこのように千変万化し、「人に在れば人と為り、
物に在れば物守りにつき、と為る」のだと言われたので、さしもの疑
惑も氷解した。
のちに、あらためて夫人に礼を言い
くと、巫山の山中に雲楼瓊台や瑤宮玉閣が現れ、獅子が守りにつき、天満が道案内として立っていた。
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黄炎篇·第一章
神と怪物
『中国の神話伝説』を読む
まえがき(china/2026index.html)