唐草図鑑バナー

ミュンヘン/ベルリンの希臘美術

me
2023年6月 Germany,ミュンヘン・(ワイマール・)ベルリンの旅で見たギリシア美術をより深く見ます。(街歩きのおまけもあり)

München ミュンヘン
グリュプトテーク(ミュンヘンの国立古美術コレクション)
州立古代美術博物館(旧アンティーク マイナー アート美術館)
アルテピナコテク
ミュンヘンレジデンツ/ ニンフェンベルギア城
イーザル川/ マリエン広場

Weimar クラシカル ワイマール
ゲーテ・シラー像
Garden at Goethe's Residence
ゲーテの墓
エアフルト大聖堂

Berlin ベルリン
博物館島
カイザー・ヴィルヘルム記念教会/ユダヤ博物館

ギリシアの唐草(文様/文化/象徴)

topの写真はグリュプトテークのBekrönung eines Grabpfeilers 
(墓柱の頂天)Photo byM 20230602

Stele Xenokrateia Glyptothek Munich 487
Stele Xenokrateia Glyptothek Munich ゼノクラテイアの墓石
(Funerary stele of Xenokrateia, daugther of Eukleides of Oie in Attika (according to inscription). Ca. 350 BC.

グリュプトテーク(ギリシア彫刻館)(1)

meグリュプトテーク (Glyptothek) @ミュンヘン  

外観

Königsplatzケーニヒス広場の門から見る

正面から見たグリュプトテーク(ファザード)

入口

ケーニヒス広場の門:Propyläen(プロピュライオン)

向かいの州立古代美術博物館野分のベンチから振り返る

広場内の風景。中央の道に観光バスが止まる

グリュプトテーク


ドイツ語版しかないけれと、いいですか‥と(;^_^A

検索情報 

me Wikipediaより

「グリュプトテーク は、ドイツのミュンヘンにある古典古代彫刻専門の美術館である。「グリュプトテーク」はギリシャ語で「彫刻館」の意。 同じミュンヘン市内にあるアルテ・ピナコテークと同様、バイエルン国王・ルートヴィヒ1世が設立した美術館である。アルテ・ピナコテークより若干早く、1830年に開館した。」 ウィキペディア

Glyptothek Munich

公式サイト

Google のクチコミ
19 世紀に建てられた壮大な建物の美術館。ルートヴィヒ 1 世が所有していた古典彫刻の莫大なコレクションが展示されている。

所在地
ミュンヘン Königsplatz(ケーニヒス広場)

ドイツ便利帳

ギャラリー

グリュプトテーク 写真のストックフォト

getty images

(公式サイトの作品紹介目次)

アファイア神殿の彫像
Aphaia pediment 5 central Glyptothek Munich

アルテミスの像(紀元前1世紀)
Artemis Braschi Glyptothek Munich 214

バルベリーニのフォーン
Interior, Glyptothek Munich - DSC07359
room2

me Wikimedia CommonsのGlyptothek Munichの画像はとんでもなく充実しています。改装のための休館(近くは、2018年10月から2021年1月まで改装工事)閉鎖中のお仕事でしょうか?独逸人の几帳面という国民性なのか??

古代ギリシア彫刻

アファイア神殿 Aphaia temple

meグリュプトテーク (Glyptothek)のウリなので、まずはこちらを。
西破風は前510~前505頃,東破風は前490~前485頃建造)

ギリシアアテネ南西エイナ島の山上に建つ女神アファイアの神殿。前510頃~前490年頃の建造で,正面 6柱,側面 12柱のドーリス式建築(→ドーリス式オーダー)。トロイ戦争を題材とした東西破風の群像彫刻は,アルカイック期からクラシック期にいたる新旧二つの時代様式(東破風が新しい)を物語っている。これらの彫刻はドイツのミュンヘンにあるグリュプトテークに収蔵されている。(→ギリシア美術

スマホ写真(Photo byM)


西破風

>
英語もあり助かる・・・


西破風


西破風


西破風


東破風の瀕死の戦士 グリプトテークで購入のミュ-ジアムブックに、Konig Laomedon(ギリシャ神話のトロイの第 2 代王)とある。https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Laomedone


東破風  右がヘラクレス


図説 ギリシア神話【英雄たちの世界】篇 (ふくろうの本/世界の文化)

図説 ギリシア神話【英雄たちの世界】篇で紹介のギリシア陶器
(ふくろうの本/世界の文化)松島 道也、岡部 紘三著河出書房新社刊 Amazon

p22 ミュンヘン  グリュプトテーク
「月を射るヘラクレス」アイギナ島アパイア神殿東面破風 BC490 ?

East pediment - Temple of Aphaia in Egina - Glyptothek - Munich - Germany 2017 (4)


ギリシアのアイギナ島の丘の上の、アファイアの聖域模型

アファイア神殿の破風彫刻群

絵葉書


絵葉書の横幅2倍 

アファイア神殿

ペディメント(破風)

ミュンヘンのグリプトテークにある神殿の模型
Model temple of Aphaia Glyptothek Munich
Model temple of Aphaia Glyptothek Munich

実は二室二種あり
・・東西の両破風展示

東破風の紹介

me 上に載っているのは
軒鼻飾り(アンティフクサ)https://karakusamon.com/antefixa.htmlのページで見た、Acroterionであるが
本munichページの魅力的なヘッダー画像 は、軒鼻飾りではなく、墓碑の上部の飾りとしてのアクロテリオンである。

ネット検索

Wikimedia Commons has media related to Ancient Roman architectural elements.
Acroterion - Cleveland Museum of Art (28426025755)

画像検索(wikimedia)

Sculpture at Glyptothek museum, Munich 48
Sculpture at Glyptothek museum, Munich (the number on the pedestal indicates the number to the description for the sculpture given in the museum catalog)

Aphaia pediment Laomedon E-XI Glyptothek Munich 85
Sculpture of a warrior from the east pediment of the Temple of Aphaia II.

Aphaia pediment warrior W-VII Glyptothek Munich 79
Sculpture of a warrior from the west pediment of the Temple of Aphaia II.

Panorama of the west pediment of the temple of Aphaia in the Glyptothek Munich n1
The Western pediment in the Glyptothek as it is now

Aphaia Eastern Pediment
Colourful reconstruction of the Eastern pediment

Aphaia east pediments Glyptothek Munich
Aphaia east pediments in the Glyptothek as it is now

「1811 年に発見された寺院の切妻彫刻 (「アイギネテス」) は独特で、西側の切妻の彫刻はまだアルカイック時代に属しているのに対し、東の切妻側の彫刻はすでに初期の古典期に属しています。したがって、それらはスタイルを年代測定するための重要な参照点となります。これらのフィギュアは現在、ミュンヘングリプトテークに所蔵されています。」
「聖域は紀元前2000年ごろに溯る。アイギネテスの最初の女神がアファイア。紀元前500年年以降は主神はアテナに。 」
「西側のペディメントのアテナ、左足を左向けているが、ほとんど周囲のことに無関心で立っている。」
個々の人物像は独立している。トロイの2回目の戦。盾の鷲のよってアイアスが識別できる。
「東側のペディマントのアテナは、左側にイージスを威嚇的に保持して、介入している。」
トロイの最初の戦い。ライオンの兜のヘラクレス、トロイの王プりアモスが描かれている。(de.wikipedia

East pediment - Temple of Aphaia in Egina - Glyptothek - Munich - Germany 2017 (4)
こちらの方が新しいというのだが・・中心の女神(アテナ)が・・

Aphaia pediment Athena E-I Glyptothek Munich 89
Athena, central figure (E-I) of the east pediment of the Temple of Aphaia, ca. 485–480 BC.

アッティカの墓碑

Grabrelief Mnesarete ムネサレテ墓碑

私がもっとも見たかったもの

以前のまとめ→2014k/greek_atena.html 墓碑芸術


ムネサレテ墓碑 高さ164㎝ 380-375BC
1910年に名高い収集家のフォン・ビッシング伯から、ミュンヘンのグリプトテークに贈られた。

Funerary stele of Mnesarete.
A young girl (left) is facing the dead woman. Inscription: ΜΝΗΣΑΡΕΤΗ ΣΩΚΡΑΤΟΣ (“Mnesarete [the daughter] of Socrates”). Attica, ca. 380 BC.

「侍女は何も持たない両手を重ねて、主人と同じく視線を落としている。頭を垂れ、視線を落とし深い思いに沈んだ女人の姿。」 「別離の悲しみと真率な諦念の情調」
「この墓碑の作者はムネサレテを夫や母や兄弟や愛児でなく、侍女と二人だけで、これほど深い遠離永別の悲愁をつつましく、しかも痛切に表し得たの である。」澤柳大五郎『アッティカの墓碑』p124-128

おんみらはアッティカの墓標に刻まれた人間の姿態のつつしみに
驚嘆したことはなかったか。
(『ドウィノの悲歌』第一の悲歌 byリルケ 訳 辻邦生)


第4ルーム(ムネサレテの部屋)


上記英語展示の翻訳は以下

Marble memorial monuments often with splendid sculpture and relief decoration were set up in ancient Greece on the burial plots in which affluent families laid their deceased to rest.
古代ギリシャでは、裕福な家族が故人を眠る埋葬地に、しばしば素晴らしい彫刻やレリーフ装飾を施した大理石の記念碑が建てられました。
Burial grounds were often enclosed by walls and provided room for large number of burials.
埋葬地は壁で囲まれていることが多く、多数の埋葬のためのスペースが提供されていました。
In addition to tall columns and reliefs in an architectonic framework there would be large scale representations of toilet and ointment vessels for the funerary rites.
建築的な枠組みの中の高い柱やレリーフに加えて、葬儀用のトイレや軟膏の容器の大規模な表現もあります。
The burial places would sometimes be watched over by stone figures -lions, panthers(495 and 496)or dogs.
埋葬地は、ライオン、ヒョウ(495と496)、または犬などの石像によって見守られることもありました。
All these monuments are intended to make the rank and social position of the deceased conspicuous.
これらの記念碑はすべて、故人の地位や社会的地位を目立たせることを目的としています。
Inscriptions ensured that the memory of the dead are preserved for posterity.
碑文は、死者の記憶を後世に確実に保存することを保証します。
They would mostly only give the name of the decreased,the father,and the place of origin.(487) それらはほとんどの場合、亡くなった人の名前、父親、出身地のみを伝えます。(487)


The Image on expensive grave stones In the Classical period are characterised by great sensitivity and deep sorrow(491).
古典時代の高価な墓石に描かれた像は、大きな感受性と深い悲しみを特徴としています(491)。
The deceased would ofen be shown in the circle of close member of his or her family and of servants.
故人は多くの場合、家族や使用人などの親しい人々の輪の中に現れます。
The dead ane the living seem to be close to each other,particularly as the architectual flamework sets them in same scene.
Inreality however the are in quite diffent spheres and there is no contact between them.
The one are in this world of the living,the otheher are in Hades,the realm of bodiless souls.
特に建築上のフレームワークがそれらを同じシーンに設定しているため、死者と生者は互いに近くにあるように見えます。
しかし現実には、両者は全く異なる領域に存在しており、両者の間に接点はありません。
一人はこの生ける世界におり、もう一人は肉体のない魂の領域である冥府にいます。

 

愛書


「ヘゲソの鼻 」
みすず書房 – 1996/11/1(刊) 沢柳 大五郎 (著)

「アッティカの墓碑 」]沢柳 大五郎 著
グラフ社 1989年11月刊

目次: 圖版 序説  ギリシア人と墓  古典期以前の墓  墓誌銘  アッティカ墓碑の中絶  墓碑再興  複數人物墓碑  白地レキュトス  死者と生者  無聞の墓主  内心の表現  古代の證言 各説  1 アリステュラ墓碑  2 ムネサゴラ、ニコカレス墓碑  3 アイギナの青年墓碑  4 レキュトス持つ女人の墓碑  5 ミュリネ墓標 大理石レキュトス  6 三人物墓碑斷片 (アテネ716)  7 タイニア持つ女人の墓碑  8 ヘゲソの墓碑  9 アムファレテ墓碑  10 ミカ、ディオン墓碑  11 テアノ、クテシレオス墓碑  12 デクシレオス墓碑  13 少女墓標 大理石レキュトス  14 女人墓碑《メランコリア》  15 ムネサレテ墓碑  16 傳《デモテレス墓碑》  17 アメイノクレイア墓碑  18 フュロノエ墓碑  19 少女と兩親の墓碑  20 《プロクレイデス》墓碑  21 《挨拶の墓碑》  22 《イリッソスの墓碑》  23 《ラムヌスの墓碑》  24 アリストナウテス墓碑 後語



「或るアッティカの少女の墓」 (1978年)
エルンスト ブシォール (著),
沢柳 大五郎 (訳)
岩波書店 (1978/03)

https://saiki.cocolog-nifty.com/shoka/2007/06/post_e9a0.html

http://leonocusto.blog66.fc2.com/blog-entry-1593.html?sp

「希臘芸術模倣論 (ギリシア芸術模倣論」)
座右宝刊行会– 1943/1/1
ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン (著), 澤柳 大五郎 (翻訳)

https://www.karakusamon.com/winckelmann.html

この本にある紹介(引用):ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann, 1717 - 1768)は、18世紀ドイツの美術史家である。 ブランデンブルクの貧しい商人の家に生まれる。苦学してハレ大学に入学し、神学を学ぶ。1743年、ゼーハウゼンで教員となる。若い頃からホメロスなどギリシャの古典文学に憧れ、独学でギリシャに関する研究を続けた。 ドレスデンで古代美術のコレクションにふれ、古代の精神に開眼する。1754年、研究のためプロテスタントからカトリックに改宗する。1755年、ローマに移住。『古代美術史』を1764年刊行。1768年、ウィーンへ行くが、ローマに戻る途中のトリエステでイタリア人に殺害される(ウィーンで授与された金メダルを狙われたためと言われる)。
『ギリシア芸術模倣論』(1755年)や『古代美術史』(1764年)を著して古代の芸術を賛美し、大きな反響を呼んだ。ヴィンケルマンは、芸術は自然を理想化すべきもの(美のイデアを表すもの)であり、それは古代ギリシアにおいて達成されている、従って我々が目指すべきは古代ギリシアの模倣である、と説いた。ヴィンケルマンの著作は新古典主義の理論的支柱となり、ゲーテ、レッシングにも影響を与えた。 ヴィンケルマンが古代ギリシアの彫刻と考えていた作品の多くは、実際にはローマ時代の模刻であった。実際の古代ギリシャの大理石彫刻は彩色があったが、ヴィンケルマンは「古代ギリシャは純白の文化」と論じたため、その後、エルギン・マーブルなどのギリシャ彫刻が博物館で表面を削られる事件が何件か起きた。

Glyptothek, Múnich, Alemania, 2013-02-02, DD 08
企画展の写真(wikipedia)


購入のグリプトテークのムックから


https://heissinger.de/saal-der-mnesarete/
(上のサイトで、このグリプトテークの紹介文抜粋が読めます)


墓碑の上部の飾りとしてのアクロテリオン

専門家の論考「古代ギリシアの墓辺図」
https://core.ac.uk/download/pdf/144468224.pdf
「白地レキュトスが流行したのはまさに アテネの黄金時代」
死者を記念する 古代ギリシアの墓辺図研究』 篠塚千惠子 著(2017中央公論美術出版)

ナイスコス形墓碑
ナイスコス(祠の形をした建造物)

小学館 世界美術大全集4「 ギリシア・クラシックとヘレニズム」(水田徹編、1995年10月)第3章2015k/seiou_bijyutu4.html

「古代ギリシアの墓碑浮彫りと墓碑銘」 田中 咲子 https://www.waseda.jp/prj-med_inst/bulletin/bull07/07_06tan.pdf


「ギリシアの墓碑によせて」 (2017大和プレス刊 発売:思潮社) ネーモー・ウーティス (著), 沓掛 良彦 (翻訳)


「ギリシア彫刻の見方」ルートヴィヒ・クルツィウス (著), 小竹 澄栄 (翻訳)(みすず書房 2007)

Grabrelief Plangon プランゴンの墓碑

葬送品を持つ


Funerary stele of Plangon (inscription ΡΛΑNΓΩΝ).
The dead girl holds a puppet in the right hand and a little bird in the left one.
A goose stands before her, and a bag with an uncertain object (toy?) is hanging at the wall. Athens, ca. 310 BC.

レリーフの地(背景)にあるのは、多分、袋とこの子の服であろうということを、ミュージアムのドイツ語のムックからようやく読んだ。

 

死せる少女の名前は


左 ミュンヘンレキュトス Münchner Lekythos 右 Funerary stele of Plangon

左 パンサー 右 Stele :Bekrönung eines Grabpfeilers

Die Verstorbene hieß ,was bedeutet.
死者は〈人形〉を意味する〈プランゴン〉と呼ばれた。
Plangon halt in der anderenHand einen kleinen Vogel.
そして小さなプランゴンは右手に人形を抱えています.
プランゴンはもう一方の手で小鳥を抱えています.
Auf die Puppe richtet sich offensichtlich die Aufmerksamkeit einer neugierigen Gans, einer weiteren Spielgefahrten des Madchen.
Sie steht auf einem Bein,das andere,nur in schwachem Reliefwiedergeben,hat sie pfotshengebend erhoben.
am Reliefgrund sind en groser Sack und zwei eigentumliche Gegenstande,vielleicht Puppenkleider oder Kinderlappern,dargestelit.
この人形は、少女のもう一人の遊び仲間である好奇心旺盛なガチョウの注意を引いているのは明らかです。
ガチョウは片足で立っており、もう片方の足はかすかに浮彫りになっているだけで、足を上げています。

mepitarestを検索してみたところ、



“Marble grave naiskos of Apollonia, inscribed "Apollonia [daughter] of Aristandros and Thevageneia". She holds a pomegranate & reaches up to stroke a dove. Pomegranate & dove are clear references to the Underworld: the fruit of the dead & the bird is symbolic of the soul c. 100 BC”
こちらの墓碑の少女は、石榴を持ち、鳩をなでている、とある。
ザクロ:冥界の食べ物、ハト」平安・・ということか。
https://www.pinterest.jp/nekomegami/ステラ/

Glyptothek München 154

手を握る

手と眼差し


room5のステラFunerary relief of Artemon (inscription).
The dead and an older man, probably his father, are shaking the hand. The roof is decorated with two sphinxes and a siren who regrets the death. Attica, ca. 350 BC.

葬儀ナイスコス

 

握手の意味


The Handshake 「人はなぜ握手をするのか: 接触を求め続けてきた人類の歴史」– 草思社2022/8/31刊
エラ・アル=シャマヒー (著), 大川 修二 (翻訳)

meこの本は未読なので後ほど、目次にある握手の東西史を見たいと思う、

墓碑では、別れの挨拶であろうが・・

その後、この本の”古代ギリシアの多様な意味を持つ「握手」”部分をまず読みました。(p72‐75)
握手の文献最古は、紀元前6世紀のホメロスの作品で、 握手の図像を示す言葉「デキシオーシスdixiosis」とは「右手をとる」という意味であるという。
握手をかたどった図像が爆発的に増えるのは前5世紀。
古典考古学者のジャネット・バーネット・グロスマンの定義では、握手は「絆を象徴するジェスチャー」であるという。
死者と生者の握手は、「おそらくは別れの象徴、もしくは結びつきが続くことの象徴として―絆が保たれることの象徴、あるいはあの世で再会することの象徴として―用いられているのだろう。 」とある。(p74)ギリシャ語δεξίωσιςdexiōsis

ACMA 1333 Samian decree 2
>紀元前5世紀頃のものとされるヘーラーとアテーナーの握手(アクロポリス博物館)

日本人のお辞儀と握手は?

以下刀剣サイトから引用
https://www.touken-world.jp/tips/26174/
「手を握るほど近い距離は、武士にとって間合いが近すぎて無防備。しかも、大小の刀を左腰に差していますから、人に近づくと日本刀同士が相手にぶつかるなど、危険で無礼な行為になってしまいます。
江戸時代の日本人文化では、近すぎる間合いとスキンシップは初対面の挨拶では行ないません。日本人にとって敵意がないことを示す行為は、刀が抜けないような場所に置いて座ることと、刀の届かない間合いを取ることになります。
本来はお辞儀も、大事な頭を相手に向かって下げるという敵意のなさを表す行為。視線を相手から外して無抵抗な状態であることを示すお辞儀は、古くは「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)の記録に見ることができます。
日本人はお辞儀と言う挨拶を1,600年以上続けていました。鎖国をしていたせいもあったでしょうが、明治維新による文明開化の急激な変化は、挨拶の方法をお辞儀から、握手へとそう簡単には切り替えることはできませんでした。」
「現代の日本でも握手は一般化したとは言い切れません。特別な存在である芸能人や政治家のパフォーマンス的要素を強く感じます。」

me握手のマナーの一つは、相手の目を見ること、とあり。日本人が握手の際、お辞儀をしてしまうのは、マナー違反とある。(-_-;)

なお、前掲の書「人はなぜ握手をするのか」によれば、握手の起源は中世の騎士道精神から武器を持っていないと証明するためという説が流布されているが、握手は剣のような武器の登場するはるか以前の石器時代から存在したという。

レキュトス

ミュンヘン・レキュトス(レキュトス型墓標)


Lekythos from the tomb of a woman. She is represented holding hand of his husband. Attica, ca. 375 BC.

Glyptothek Munich 17 10 2016 Room 4 01
me 上は、ウイキペディアの画像である。なるほど写真は芸術である、と思った。

グリプトテーク続き→エイレーネ・ホール他 に続くmunich2.html
そちらでは、棺の美術で見てきた、サルコファガス(石棺)と、本唐草図鑑の一つのテーマである、アイオン(時間の神?)の有名なロ―マのモザイクを見ます。

me
尚。グリュプトテークの向かいの古代美術収集館には、白地レキュトスも多数収集されていました。
順次見ていきます‥


グリュプトテーク(2)

白地赤像レキュトス 


Funeral scene, white-ground lekythosパリ 小宮殿
a funerary stele Attic white-ground red-figured lekythos,
late 5th century BC.


Dexiōsis (handshake) scene; in a funeral context, as is the case here,
this solemn gesture represents a farewell.
白地レキュトスに描かれた赤絵
葬儀の握手シーンの後ろでリボンが垂れているようだ・・。
タイニアという墓に結ぶリボンのようなもの
エジプトのハチマキ→ガーランドレキュトスとは

(wikipedia)レキュトス(古代ギリシア語: λήκυθος、lekythos)は、油の貯蔵に使われた古代ギリシアの陶器の一種で、特にオリーブ油を貯蔵した。ほっそりした形状で、首の部分に取っ手が1つ付いている。レキュトスは主に亡くなった未婚男性の遺体に油を塗布するのに使われ、墓から出土するものが多い。

墓へのお供え物でもあった。

(wikipedia)タイニア(古代ギリシア語: ταινία、複数形:ταινίαι、 羅・複数形:taeniae)は、古代ギリシアの服飾において用いられたヘアバンド、リボンまたは髪紐。
これらのヘアバンドは、古代ギリシアの祭の際に着用された。神々もまた、タイニアを頭に着用していた。さらに、聖像や樹木、壺、記念碑、犠牲獣、故などにもタイニアが結び付けられた。また、タイニアは後にローマ人にも受容された。 類似するヘアバンドの一種としてディアデーマと呼ばれるものが、王の象徴として使用された。

Visiting grave BM D73
Woman decking a gravestone with garlands.
Attic white-ground lekythos.
between 420 and 410 BC、大英博物館蔵
※Wikipediaの説明ではガーランド

図像

花の図像入り口| |蟲の図像入り口
蛇(龍)図像入り口 獅子図像入り口

関連ページ

ドイツの美術史家 →ヴィンケルマン

墓碑芸術 墓碑、ステラ funerary stele
アンティクサ、 アクロティリオン
 →2014k/greek_atena.html

リボンを結ぶこと→2013k/egypt_hatimaki.html
(再掲) タイニア、 ディアデーマ、ガーランド

ギリシア美術を代表するものgreece/greek_koten.html

唐草図鑑用語

パルメット
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