唐草図鑑
聖樹聖獣文様

西欧中世の美術

「ロマネスクとゴシックの世界」

岩波講座 世界歴史 10  中世 4(中世ヨーロッパ世界 Ⅱ岩波書店 1979 )  の最後の項目です。

グレゴリウス改革と叙任権闘争 堀米 庸三
「商業の復活」と都市の発生 佐々木 克巳
十字軍とビザンツ世界 渡辺 金一
十二世紀ルネサンスと西ヨーロッパ文明 伊東 俊太郎
正統と異端 今野 国雄
渡辺 昌美
十二・十三世紀の西ヨーロッパ諸国 佐藤 伊久男
中世中期の社会と経済 松垣 裕
大学の発達とスコラ学 森 洋
 今道 友信
ロマネスクとゴシックの世界 柳 宗玄

目次

一 中世美術の認識


二 ロマネスク以前


1 美術史における評価の問題
2 ケルト美術の伝統
3 ゲルマンの美術の伝統

三 建築の諸問題


1 ロマネスクの建築運動
2 建築発達の諸条件
3 石造建築、その意味と技術
4 聖堂の平面構造とその象徴性
5 高さへの情熱と反抗

四 光と色彩の芸術


1 光の象徴性
2 色彩美の探求
3 史的展開

五 中世彫刻の本質


1 人間像の問題
2 彫刻の建築性
3 丸彫り像とその展開
目次読書

一 中世美術の認識

名著 アンリ・フォスィヨン『西洋の美術』(1938)
「西洋は、中世という時期に、その固有の文化を作り上げ、
地中海、東方及び北方部族の影響から次第に抜けていった。」
「このオリジナルな一大文明は、モニュメントにきわめて強烈に表現されており、西洋の運命に運入してきた」(p453)
=西洋は、中世においてその主体性を獲得し、中世を土台として発展してきた。
アメリカ文明とヨーロッパ文明とのあらゆる相違は、前者が中世を持たぬという事実に由来する。 (p454)
中世なるものは、久しく「暗黒時代」と考えられ、侮蔑的見方は少なくとも19世紀まで続いた。
「中世」(中間の時代、古代ギリシア・ローマ及びルネッサンスという輝かしい両時代に挟まれた野蛮な時代)という概念は、15世紀のジョヴァンニ・アンドレアあたりから始まり、17世紀の言語学者クリストフ・ケラーやゲオルク・ホルンらによって一般化した。(p454)
ゴシック=ゴート族の、野蛮なという意味の形容詞
しかしゴシック美術に対するロマン主義者たちの関心と 考古学者アルスィス・ド・コーモンらの学問的関心によって、ゴシック美術は比較的早くから名誉を回復。
ずっと遅れて現れたのは1819年にジュルヴィル及びル・プレヴォが用いたロマネスクという語。1875年『ラルッス世界大辞典』「ロマン」という項でも侮蔑的に書かれる。=ローマ建築の堕落、せいぜいゴシック建築の準備的段階と考えられた。(p455)
ゴシックおよびロマネスクという言葉は、厳密にいえば言葉の誤用からきた。今日ではその語源と結びつけ侮蔑的な意味で用いる人はいなくなった。(p456)

二 ロマネスク以前

1 美術史における評価の問題

18世紀の古典主義者ヴィンケルマン(1717‐68)にとっては、ギリシア美術だけが書くに足る唯一の美術であった。
19世紀に入り、まずゴシックがはるかに遅れてロマネスクがその存在を認められるようになった。 学問的にお取り上げた最初の人々はいずれも建築史家であった。(p457)
古典主義とは、古代ギリシアの紀元前5世紀後半から4世紀にかけて、その典型的表現(美しき人間表現 人間形態の理想美)を見たもの。
ゴシックの人像が比較的早く認められたのは、その古典主義的性格による。

 古典主義とは異なるロマネスク独自の形態原理を解明する試みが、今世紀(20世紀)の前半に為され、大きくクローズアップされることになった。

10世紀までの中世、プレロマネスク、カロリング朝の美術の北方的要素の問題
ランゴバルド系(8‐9世紀)の組み紐文、ねじり紐文(抽象芸術)(p459)


2 ケルト美術の伝統

ヨーロッパの大部分は前15世紀ごろからケルト文明(ハルシュタット、次いでラ・テーヌ)に属していた。
前1世紀のローマ皇帝のガリア征服以来、ドナウ以北、ライン以東、ブリテン島北部及びアイルランドを除き、ローマ化されやがてキリスト教の時代に入る。しかし、 ケルト文化の伝統は二重の意味で保持される。
農民を意味するヨーロッパ語は異教徒を意味する語源を持つ。 ケルト文化の伝統は農村あるいは山地に温存される。(p460)
ローマ化されることのなかった辺境では、ケルト部族がそのままキリスト教化し、ケルトの伝統を生かしたキリスト教文化が独自の発展を遂げる。ケルト系の美術は、ヨーロッパの中世美術の重要な根である。
ラ・テーヌ期のケルト美術の基本的主題ともいえる螺旋文の類が、おそらく南フランスのレラン島を通じてコプト(キリスト教的エジプト)から導入されたと推定される組紐文、スカンディナヴィア方面からもたらされたと考えられる怪獣組紐文などと融合し、華麗な色彩の使用と相俟って、極度に発達した芸術の一世界を形成した。
地中海地域の人々が神々の姿を人間の形で表現したのとは対蹠的に、聖なるものを無限に流動し回転する微細な形態や式台背表したのである。文様こそ、自然界を超えた聖なるものの可視的表現であったのだ。
ケルトの福音書の挿画の大部分を占めるものはそういった神秘的な形態の流動であるが、それらを安っぽい響きを持つ「文様」という言葉で言い表わすことは不適当であろう。これは宗教的芸術の一つの極致を占めるものと思われ、またそこにロマネスク美術の本質を探るための一つの鍵があるように思われる。(p461)

 

3 ゲルマンの美術の伝統

同じ意味で重要なのはゲルマン系の美術である。
その美術は、これもまた半自然主義的な抽象芸術。
今日知られる遺品は主として金工品であるが、好んで宝石やエマーユ(七宝)をあしらい、強烈な色彩効果を示している。その多くは服飾品であり、文様は種々の幾何学文、組紐文、怪獣文などで、それらはキリスト教の時代に入ってからも宗教用具(十字架、遺物箱、聖杯、パテナなど)にそのまま利用されている。
こういった文様の主題や工芸技術は、明らかに中央アジアないし南ロシア方面のスキタイ、サルマタイ族とのつながりを示すものである。そこに鳥獣や人間が主題として登場する場合でも、それらは極度にデフォルメされている。
ここでデフォルメというのは、自然界の形態を造形的リズムによって整理すること(強調ないし省略による本質的なものの表現)であり、結果的には幾何学がないし抽象化である。そこにはまた、宝石やエマーユの光輝く色彩の効果を最大限に発揮させようとする積極的な意図が認められる。
絵ガラスの大芸術が、本質的に形態描写の芸術ではなく、輝く色彩の芸術であるその根源は、ゲルマンないしケルト的感覚にまで遡ってこれを探らねばならない。

要するにケルト及びゲルマンの伝統に見られる抽象形態と光の芸術は、古代地中海文化における自然主義ないし人間主義の芸術とはまったく対蹠的な性格を示すものであり、それがキリスト教における超絶神の理念と容易に結びつき、特色ある宗教芸術の一世界を形成したのである。

三 建築の諸問題

1 ロマネスクの建築運動

中世は、古来が彫刻、近代が絵画の時代といわれるのに対して、建築の時代といわれる。(p163)
中世―とくにロマネスクおよびゴシック―の教会建築が、19世紀に鉄骨及び鉄筋建築が現れるまでは、建築史上最も創意に富む大胆なものであったことは確かである。また教会建築に付随する彫刻・絵画の類も、少なくともゴシック世紀までは、常に建築との協和という枠の中で行われた。

十二世紀の前半を中心とするロマネスク建築の普及(「白い衣」なる石造建築)は非常なものがあったようだ。今日、校正の破壊を比較的免れた地域(例えばブルゴーニュ、サントンジュ、カタルーニャなど)をめぐってみると、農村の教会の大部分がロマネスクであることに驚かされる。

ゲルマン族の文化は本質的に「木の文化」であった。
中世の木造建築の遺例は僅か)
イギリスのグリーンステッドの教会、(1073)、ノルマンディのオンフレゥールのサント・カテリーカテリーヌ教会(15世紀)
遥か北方のノルウェーには、十二世紀前後の極めて特色ある木造聖堂がいくつも残っているのが注目される。アイルランドの写本挿画などに見られた怪獣組紐文の類がそのまま伝えられており、聖堂建築がきわめて古い伝統に則ったものである事が推測される。

ロマネスク建築運動の二重の意味
第一は、主としてオリエントに頼っていた石造建築技術を吸収消化しつつそれを自主的に新しく発展させたこと。
第二は、西洋が古き「木の文化」から脱皮したこと

Maria Laach Abbey
図1 マリヤ-ラーハ修道院聖堂Maria Laach Abbey
(1093‐1156年、ロマネスク様式)西ドイツ
*ニ重内陣式:「聖堂の東西両端にそれぞれーつずつ内陣を持つ形式」
ベネディクト会大修道院教会堂

2 建築発達の諸条件

第一に、9・10世紀に西洋各地を脅かした夷狄が鉾を納め、キリスト教文化圏の中に定着したこと
南イタリアとイベリア半島に進出していたイスラム教徒が、後退期に入り、数世紀以来の脅威が下火になった
他方、政治的にはオットー王朝、カペ王朝が安定した政権を持続させ、都市や農村の人口は増え、修道院活動も隆盛期を迎えるにいたった

直接に石造建築を発展させたのは、諸種の技術的進歩・とくに重要なのは、馬の牽引力具の改良による輸送力の増大

貴を良しとする考えと貧を尊しとする考えと
前者は、金銀宝石の美を神の栄光の象徴と見、従って、十字架、宗教用具はもとより、教会そのものも可能な限り豪華な材料を用いて飾り立てようとする。(ベネディクト派、クリュニー派、スュジュ―ル)
後者は贅美なるものは物欲の対象に外ならず、、帰って霊的就業の妨げになると考える。(シトー派)

一般に粗末な材料で満足し、前代までの贅美なモザイクを用いず、安価な壁画で満足した。

3 石造建築、その意味と技術

石造建築発達の直接の原因
 石に対する宗教的愛着・・アイルランド:石の十字架
 石造聖堂の心理的効果・・世俗・物質界との遮断効果、荘重な印象

切り石を積み上げ複雑な荷重の均衡を維持しながら石に囲まれた建築空間を提供することは極めて困難(破損崩壊)→尖頭穹窿(ブルゴーニュ)、交差穹窿(ヴェズレー)
ゴシック穹窿(一単位の交差穹窿の四辺及び対角線をアーチ状の支骨で補強)
ゴシック建築は、結果的にはロマネスク建築と対蹠的な原理を示したが、ロメネスク建築の論理的帰結と考えることができる。

LreStSavinSGAbteiLanghaus
図2はサン・サヴァン聖堂内部(11・12世紀)
半円穹窿構造

4 聖堂の平面構造とその象徴性

3種の聖堂
1.教区聖堂および大聖堂(司教座聖堂):一般信徒のためのもの・・祭室(司祭が儀式を行う)と身廊(信徒の席)・・縦長のバシリカプラン・・再室の前部が左右に伸びて聖堂全体が十字架形に、身廊は2列の列柱により三分される
2.修道院聖堂・・多数の東向き小祭室、回廊、集会室、食堂、寝室をもつ
3.巡礼聖堂・・本来聖遺物は祭室の地下に納められ、信徒はその周壁の窓から見たが、聖遺物の数と信徒が増えると、祭室の周辺に放射状に小祭室が設けられた。

象徴性の問題
祭室が東向(キリスト教以前お太陽崇拝が残る)
ラテン十字形(東方の集中式教会がギリシア十字形を成すのと対応)

ロマネスクおよびゴシック時代は象徴論が極度に発達した時代
聖堂はそれ自体が超自然の聖なる秩序を可視的に表現したもの。それ故、聖堂の内部及び外部には、それぞれの図像が整然たる秩序によって配置されている。

5 高さへの情熱と反抗

聖堂がロマネスクからゴシックにかけてますますおの高さを増していったのは、もっぱらその象徴的理由から。穹窿は聖なる天空を表し、尖塔は天を志向する民衆の意思を表す。
クリュニー第三聖堂は穹窿の高さ床30m
ゴシックのアミヤン大聖堂は42m、ボーヴェ大聖堂は48.5 m 唐も並行し、ストラスブール大聖堂の塔142m

大聖堂は数万の市民の収容力をもった→
ゴシック末期・・とくに商業の発達した地域(フランドルや北イタリア)では、大聖堂に匹敵するような市長や組合建築などが次々とたてられた=中世聖堂がますます高く巨大なものになっていった現象の背後には、宗教芸術の世俗化という危険が潜んでいた
聖フランチェスコの「貧」の精神、サン・ダミアーノの庵、十二世紀のシトー派修道会(「貧の芸術」 中世美術の重要な一面 機能主義の原理と一脈通じる)

四 光と色彩の芸術

1 光の象徴性

ロマネスクおよびゴシック美術の華:絵ガラス
色ガラスの組み合わせによって図像や文様を表しそれを窓に嵌め込むもので、細部は、ガラスの上に胴の酸化物などを用いて黒褐色の線を描き込み、それを焼き付けて表現する(いわゆるグリザーユ)
紀元はメロヴィング朝 現存するものは12世紀半ば以降のもの

神が光であるという考え、光は美であり聖である。
聖堂建築で、光の源である窓が、色ガラスの利用によって聖化されたことは当然であった。

2 色彩美の探求

色彩の効果 透過光を利用する ガラスそのものの質の問題・・ 不純物が光線に質的変化を与える
12・13世紀の絵ガラス師のすばらしい技術と感覚・・ ヴィオレ=ル=デュック『建築学辞典』第9巻「絵ガラスvitail]の項に詳しい。

3 史的展開

聖堂に残る絵ガラス:
南ドイツのアウグスブルク大聖堂(1130年)最古の例
1140年代~13世紀中ごろまで、北フランスを中心にして驚くべき発達を遂げた:シャルトル大聖堂(12世紀中頃より13世紀前半)の絵ガラス窓は3000㎡、ブルジュ大聖堂(12世紀末~13世紀)、パリのサント-シャペル(13世紀中頃)

シト―派の聖堂(12-13世紀)ただの白ガラスで厳しい禁欲的な理念を表明 しかしガラスを組み合わせる鉛の線の描き出す植物門や抽象文はおおらかで美しク、落ち着いた宗教的雰囲気を与える 中世の芸術理念の一つの極

13世紀末から、。絵ガラス芸術は急速に変質・・白ガラス使用(その上にグリザーユで図像や文様を描く)、銀黄(ジョーヌ-ダルジャン)、重ねガラスといった新たな技法によって、明暗や中間色を自由に出すことが可能になった→輝く色彩の効果を意図する色ガラスのモザイクから、形態描写へ
光と色彩の本来的な美とその象徴性が忘れらて、それに対する宗教的熱情がさめるとき、中世の色彩美術は終焉を告げる。

五 中世彫刻の本質


1 人間像の問題

ロマネスク時代は、古代以来凋落した彫刻技術のルネッサンスの時代といわれる。にない。
しかし人間像は彫刻の一部を占めるに過ぎない。ロマネスク彫刻なには、動植物あるいは幾何学文が人像と同じ価値を持つ場合が多かったろう。現実の人間の形を再現する意図を最初から持たないと考えられる場合が多い。
写実というようなことは最初から全く意図していなかった。

2 彫刻の建築性

建築と彫刻との関係は、アンリ=フォスィヨンとユルギス=バルトルシャイティスが解明した。
ロマネスク彫刻科は、装飾すべき建築部分の形態ないし枠に相応させながら主題の形態を呼構成する=「枠の法則」
建築との協調という原則

聖堂入り口の陽刻に関しては極めて興味ある様式的性格が観察される。神性あるいは聖性がそれぞれの段階においてどのように視覚的に翻訳されるか。キリストや聖母は、天使その他より大きく描かれ、常に中央を占め、他と異なって常に厳密に正面性を守る(人物の大小、位置、正面性の度合いなどが、それぞれ聖性の段階を表す象徴的地味を担っている)

3 丸彫り像とその展開

まるぼりぞうとしては、オーヴェルニュ、カタルーニャ、スイス、ドイル、北欧などの多く保存されている聖母子像が主要なもの。ほとんど木彫りで、従来稚拙などと評され、あまり紹介されることがなかった。

動きのない、硬化した姿勢:動きと時間性を超越した永遠者の姿とみるべき:、誇張された目や手、その他全体の形態は、飛鳥物のような宗教的性格の強烈な像といえる。

12世紀後半からゴシック時代に向かうとともに、自然主義が徐々に支配権を獲得
12世紀中頃のシャルトル大聖堂西正面のものは、如何にも人像円柱statues-colonnesと呼ばれるに値するが、13世紀初頭につくられた南北正面の像では、人間はほとんど実際のプロポーション、有名な「微笑む天使」はこのグループに属する。そ、微笑みの清らかさよりは天使の人間化を見るべき。
このころから丸彫り像が増え、特に聖母像は従来の「栄光の聖母」といわれる坐像から立像に移る。神の母→人の母

ゴシック末期 ピエタないし「悲しみの聖母」
この強烈な感情表現は、建築におけるゴシック末期の感情表現(垂直式、火炎式その他)に対等するものである。

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