猫頭による猫頭のための
古代エジプトの歴史 風土

復習4
エジプト Egypt アフリカ大陸の北東隅,ナイル川第 1 急湍 (たん) 以北の約 1200kmにわたる細長い流域地帯が本来のエジプトで,地形上幅 8 〜 25kmの河谷地帯 (上エジプト) 河口のデルタ地帯 (下エジプト) とからなる。古くよりガルビーヤ砂漠中のオアシス (シワ Siwa,バフリーヤ al‐Bahr ̄ya,ファラーフィラ al‐Far´fira,ダーヒラ al‐D´khila,ハーリジャ (カルガ) al‐Kh´rija, Kharga の各オアシス),第 1・第 2 急湍間の下ヌビア,紅海沿岸,シナイ半島を勢力圏とし,この地域は現在のエジプト・アラブ共和国にほぼ対応する。エジプトという名称は,古都メンフィスの別名フウト・カ・プタハ─ut‐ka‐Ptahに由来するとみられるギリシア名アイギュプトスAigyptosの転訛である。古代エジプト人は自国のことをケメトKemet (〈赤い〉砂漠に対する〈黒い〉土の国の意), タ・ウイTa‐wi (上エジプトと下エジプトの〈二つの国〉の意) などと呼んだ。ヘブライ語ではミツライムMiorayimと記され,現代アラビア語での名称ミスルMiorにつながる。
 北アフリカの砂漠地帯を貫いて北流するナイル川がエジプトの生命線である。デルタ北西端のアレクサンドリアの年間降雨量 204mm,カイロ 30mm,ミニヤー以南の上エジプトはほとんど 0 に近いという,オリエントでは砂漠につぐ乾燥地帯にあり,ナイル川の浸食作用により形成された河谷および河口に,川が上流より運んできた肥沃な沖積土が堆積してつくりあげた土地 (ナイル河谷約 2 万 2000km2,デルタ約 1 万 3000km2) だけが,人間の生存と農耕に不可欠な水を得て,人間生活の舞台となった。この状況は,灌漑地域の拡大による近年の生活空間の広がりにもかかわらず,基本的には変わっていない。毎年 6 月半ばより 10 月までの約 4 ヵ月間,ナイル川に流入する青ナイルとアトバラ川の水源であるエチオピア高原の季節的降雨を集めて増水した河水は,両岸の沖積原を覆う。この期間は主要作物である麦類の休閑期にあたるため,水路によって堤防で囲った耕地に増水を導き,約 1 ヵ月間冠水したままの状態に保つというエジプト独特の貯溜式灌漑が案出され,エジプトを古代世界最大の穀倉とした。まさにエジプトは〈ナイルの賜 (たまもの)〉 (ヘロドトス《歴史》2 巻 5 節) であり,古代エジプト人は川を恵みの神ハピHapiとして崇拝した。灌漑機構の効率的な配置・運用のための集団労働の必要性から政治社会の組織化が進んだ。
 東西を砂漠で限られた閉鎖的な地形と,きわめて規則的な季節的増水をもたらすナイル川の恵みとにより,エジプト文明は他のオリエント文明に比べて相対的に孤立した自律的発展を示す。このため文明の性格は伝統主義的,保守的で,豊かな食糧と砂漠の鉱物資源 (石材,金,銅など) のおかげで対外侵略に乗り出すことはまれであり,平和的な交易で満足した。王朝末期以来次々と他民族の征服を受けて政治的自立を失い,ギリシア文明,イスラム文明などの強い影響を被ったが,古代に確立した生活様式を根本的に変えることなく,民族的特性を現在もなお保持している。
塢歴史塋(平凡社世界大百科事典)
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エジプト・アラブ共和国

正式名称=エジプト・アラブ共和国 面積= 99 万 7739km2 人口 (1996) = 6089 万人 首都=カイロ Cairo (日本との時差=− 7 時間) 主要言語=アラビア語 通貨=エジプト・ポンド Egyptian Pound

【自然,風土】

 アフリカ大陸の北東端を占める共和国。北は地中海,西はリビア,南はスーダン,東は紅海に面し,1982 年には,イスラエルとの平和条約に基づき 1967 年の第 3 次中東戦争以来占領されていたシナイ半島が返還された。
 国土は,ナイル河谷とナイル・デルタ, ガルビーヤ Gharb ̄ya 砂漠 (総面積の 67 %), シャルキーヤ Sharq ̄ya 砂漠 (同 21 %),シナイ半島 (同 6 %) の四つに区分される。総面積は日本の 2.7 倍であるが,その 97 %は砂漠で占められる。居住面積は,全土の 5.5 % (約 5 万 5000km2) にすぎず,それも,地中海沿岸,ナイル・デルタとナイル河谷に集中し,居住面積当りの人口密度は 760 人/km2 (1980) を超える。とくに首都カイロには,680 万人 (1992) と全人口の 10 %以上が集まる。
 気候は,地中海性気候の北部沿岸部を除き,大部分は砂漠気候に属する。雨は冬季に,ナイル・デルタ,中エジプト,シナイ半島や紅海沿岸の高地に少量降るが,ナイル川に沿って内陸に向かうほど,平均雨量は減少する。気温は,夏は内陸に向かうほど高く,ナイル川上流の上エジプトでは 40 ℃を超すこともある。冬は逆に海岸部の方が内陸部より温暖である。
 住民の大多数は,アラブ系エジプト人で,ハム語系の民族であった古代エジプト人と,アラブをはじめスーダン,ヌビアなどとの混血によって歴史的に形成された。アラビア語を公用語とするが,日常会話では,標準語の j 音を g 音で発音するなど,標準アラビア語とはかなり異なる発音がみられるエジプト方言が広く用いられる。住民の約 90 %はスンナ派イスラム教徒で,このほかコプト教徒が 1 割程度を占めるといわれる。
 エジプトの風土は,先に述べた自然条件に大きくかかわり,何千年にも及ぶ自然と人間の歴史を反映している。エジプトとは,ひとことでいえばビクトリア湖とエチオピア高原の降雨を二大水源とする,白・青両ナイルの合流が砂漠のただ中に流れ込み,生命を与えられている国である。ゆえにエジプトは常にナイル河谷に目を注ぎ,そのグリーン・ゾーンは地中海を天にして屹立する〈一本 (ひともと) の草木だ〉とか〈ナツメヤシの樹〉にたとえられる一方,砂漠は不毛の地として視野からはずされた。エジプトは〈広さ〉ではなく〈長さ〉だといわれるが,この言葉もまたこの国の本質をつかんでいる。 ナイル川は国土を南北に貫き,道路も鉄道も幹線はナイル川に沿って走り,物資も労働人口としての人間も南北に移動し,東西の動きは微々たるものである。ナイル川が地中海を目指して北に流れるのに対し,ほとんど年間を通じて北から南へ吹きこむ風があり,この北風が,古来特に動力機のない時代に,ナイル川による南北の往復を可能にし,文明を担う影の力ともなってきた点は見のがせない。
 ナイル川は砂漠に囲まれた国土に農耕を可能にしたが,それはいっさいを天水によらず年 1 回全エジプトを蘇生させる氾濫という自然のドラマに依拠するものであった。往時ナイル川は氾濫時に奔馬のごとくエジプトを縦に駈け抜け,その後に来る渇水時には,人びとはナイル川の水の一滴ずつを赤児をあやすようにいつくしんだという。ここでエジプトの灌漑農業に注目してみる。太古においてエジプトは病原菌の蔓延する手のつけられない大湿原だったが,ナイル河谷の住人は,果敢に働きかけ豊饒の地とした。まさに〈ナイルにその本来の役割を果たさせたのは,ほかならぬナイル河谷の住人だった〉 (現代エジプトの地理学者ガマール・ヒムダーンの言葉)。だが 1 条の水脈に一国の生命が全的にゆだねられているという事実は,さまざまな事態を潜在させていた。まず,上 (かみ) と下 (しも) の農耕民同士の間で,特に渇水期に水争いが生じ,血が流されるため裁定者の存在が不可欠であった。また自然の猛威をほしいままにするナイル川を御して生産に結びつけるためには,治水という一大事業が必要であった。堤の築造,用水堀の開削,貯水工事から成る治水事業には大規模な労働人口を動員しうる権力者を不可欠とした。つまりエジプトの生態系は,ナイル川,農民,支配者 (裁定者) の 3 者によって構成されるべき必然性をもっていたといえる。
 そこでナイル川と農民との関係をまず見ると,そこには文字通り生命の存続を約束してくれる水と肥沃な沖積土 (タミー) とをもたらしてくれる風土への限りない謝恩の念が培われていた。
 〈エジプト人は砂漠の中にあって,常に反砂漠的であった〉 (ガマール・ヒムダーン) と言われるように,彼らは砂漠には背を向けたが,背で感得している砂漠の不毛に対する意識は,ナイル川の恩寵への謝恩の念を日々鮮烈にしたであろう。この抑え難いまでの謝恩の念は,毎年訪れる洪水という自然のドラマを目撃することによって,人間の力を超えたものの存在へと,いよいよ強く結びついていった。このようにして汎宗教的な精神風土が生まれ,キリスト教やイスラムのように後に外から来た宗教を受け入れる地盤が用意されるにいたった。この汎宗教的な精神風土の存在は,エジプト人の精神傾向の一つと目される,不可視なものへの信仰 ghayb仝b ̄ya とか宿命論的傾向,さらには,不可視なものを見る力を付与されている聖者への崇拝に基づく土着宗教への志向を考えるうえで見落とすことができない。
 他方農民と支配者との関係はどうであったか。風土が求めた公正な水の配分と治水とをつかさどる者は,現実には歴史が証言するように,抑圧者となって出現し,農民を収奪してやまなかった。エジプトの地勢も支配者が抑圧を強化させるのを助けた。まず周囲が砂漠であり,農民は死と同義の砂漠に逃れるよりは,生の可能性の残されたナイル川の岸辺にしがみついたため,抑圧者の射程内に置かれた。また国土が平たんであることも支配を徹底させるに好都合であった。また一国の生命線が 1 条の河筋によっているため,水脈を握ることによって支配を徹底しえた。 〈おれ (支配者) に土地と労役をよこせ。おれは水をやるから〉ということわざはこのことを表現している。
 農民にとって支配者は忌まわしい必要悪でしかなかった。かくしてナイル河谷につなぎとめられ,そこにとどまるほかに道のない農民は,支配者に対し,〈どうにか耐えられる範囲での休戦〉という処世訓により,事を構えずひたすら耐えたが,それは〈屈従による延命〉といわれるものでもあった。屈辱に甘んじ,卑屈になり,今日が昨日と同じであればそれでよしとする生き方は,無気力な保守性を培っていった。このような身の処し方は,長い間に病んだ精神傾向を育て,ついにはエジプト社会をもむしばむものとなり,不幸にもエジプト民衆相互の関係を損なうまでになった。このようにして生まれた性向は,エジプト人自らがエジプト的性格として,論議や著作の対象として取り上げるものとなっており,古くは,15 世紀の歴史家マクリージーが,小心,臆病,讒言癖,権力への走狗などとその性向を指摘している。これらの病んだ性向は,エジプト社会に深く巣くっており,さまざまな社会現象の影にひそむものとなっているのである。
奴田原 睦明(平凡社世界大百科事典)
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ガマール・ヒムダーン著『エジプトの個性』

地理学者ガマール・ヒムダーンの世界

ナイル[川] Nile River アフリカ大陸北東部,ウガンダとエチオピアの湖や山地から発して,スーダン,エジプトを貫流して地中海に注ぐ全長約 6700kmの大河。アラビア語ではニールal‐N ̄lと呼ばれる。
 ウガンダのビクトリア湖から流れ出た直後,ビクトリア・ナイルと呼ばれる流れはスーダン南部の大沼沢地を抜け,いくつかの流れを集めて白ナイルal‐N ̄l al‐Abyafとなる。エチオピアのタナ湖から発する青ナイルal‐N ̄l al‐Azraqはスーダンの首都ハルツームで白ナイルと合流してナイル本流となって北に向かう。青ナイルは,季節風による降雨の影響をうけて増水期に多量の水を流すことがあり,エジプトにおける洪水のもとともなる。スーダンのアトバラでさらにアトバラ川‘ Apbaraが合流する。ハルツームからエジプトのアスワンにかけて,途中六つの急流 (瀑布) が形成される。アトバラ川の合流以降,合流ないし分岐する支流もなく北流し,エジプトの首都カイロの北でロゼッタ支流およびディムヤート (ダミエッタ) 支流に分かれ,広大なナイル・デルタを形成して地中海に注ぐ。
 長いナイル川の流域のうち,水源からスーダン南端にかけては熱帯雨林地帯,スーダンのうち南半分は半乾燥地帯をなし,それ以北地中海に至るまで砂漠に囲まれた乾燥地帯をなしている。

【灌漑と利用の歴史】

 ナイル川の特性は,水源地帯での雪どけ水などのため毎年きわめて正確な周期で増減水を繰り返す性格を備えていることにある。ナイル川の増水期は毎年 7 月半ばから 11 月ないし 12 月にかけ,減水期は 1 月から 6 月すぎにかけての期間である。ナイル川の年間平均流量はアスワンでの観測でおよそ 820 億m3であり,その 80 %にも相当する量が増水期に集中し,残るわずか 20 %が減水期に流れる。
 ナイル川の水を人間生活に利用するには,増水期の水量はあまりに大きく,洪水を起こす危険があり,また減水期の水は増水期に比べあまりにも少量であるため,これまた利用が困難であった。ナイル川の水を灌漑用水として,またごく最近では水力発電のために,有効に利用しようとするくふうの歴史は長く,いくつかの発展段階からなり,主としてエジプトでの流域で展開されてきた。

[ベースン灌漑段階]

 ベースン灌漑とは,ナイル川の流域に堤防で囲ったベースン basin (水盤,ため池などを意味する英語。アラビア語ではハウド hawf) をつらね,ナイル増水期の水の一部をベースン水路で導入し,各ベースンに水を張って数週間湛水し,その間にベースン内の土地に水を吸収させるとともに増水期の水が含む有機質肥料分に富むシルト (泥土) を地面に沈殿させる灌漑方式である ( 図 )。土地に十分な水分を吸収させた後余分な水を排水し,泥状の地面に小麦などが直接播種された。
 この灌漑方式はエジプトで紀元前何千年もの昔に開発された。増水期ナイルの巨大な水のエネルギーに逆らわないため,まずナイル川西岸でのみベースン灌漑が導入され,東岸は増水期の水があふれるに任せ,安全弁の役を果たさせた。護岸技術が進み,ナイル川の堤防を強化することができるようになり,またファイユーム地区の大くぼ地を遊水池に仕立て,必要なら増水期の水の一部をそこに放水しうる体制が整えられた前 1900 年ころ以降に,東岸にもベースン灌漑が広げられた。
 ベースン灌漑方式は,耕地となるベースン内の土地に水分と有機質肥料を供給したため,土地生産性のきわめて高い農業を可能にした。古代エジプトの諸王朝の繁栄や,ピラミッドなど巨大なモニュメントの築造に投入された膨大な量の非生産的奴隷労働力への食料供給は,主としてこの生産性の高い農業によってまかなわれたのであった。
 ベースン灌漑方式はエジプトの長い歴史の過程で,ときに荒廃し,またときに修復されながら, 19 世紀初めまで基本的に維持されてきた。ベースン灌漑方式はすばらしい技術であったが,この方式では灌漑用水が得られるのは年 1 回の増水期のみであり,それに続く作付けも 11 月から 12 月に播種し翌春に収穫される小麦など,年 1 回のいわゆる冬作しかできないという欠点があった。

[夏運河による通年灌漑]

  19 世紀以降エジプトでは綿花を栽培して輸出することが計画されたが,綿花は,減水期でナイルの水位が最も低い 3 〜 4 月に播種され, 10 月ころに収穫される夏作であり,ベースン灌漑では栽培不可能な作物であった。
 ベースン灌漑方式のベースン水路は浅くて,ナイル川が増水し水位が高くなったときにのみ水が流入する水路であった。この水路を深く掘り下げ,減水期の低い水位の水でも流入するような運河が掘られ,この深い運河は夏運河と呼ばれた。夏運河には増水期では大量の水が,減水期でも低い水位ながら水が流入した。夏運河の低い水位の水は水車など揚水機具を使って耕地まで耀み上げられ,灌漑がなされた。これでナイルの増減水にかかわらず,年間を通じて灌漑が可能となった。
 夏運河による通年灌漑方式はデルタ地帯を中心に導入され,綿花の栽培が普及した。エジプト綿花は品質の優れた長繊維綿花であり,今日に至るもエジプトの最も重要な輸出農産物である。
 シルトを豊富に含むナイル増水期の水を使うベースン灌漑下の農業では,人工的な肥料を施す必要はほとんどなかった。夏運河によってシルトの少ない減水期の水を用いる綿花栽培が普及するにつれ,地力維持のため施肥や作付けローテーションを導入することがしだいに必要となった。

[近代的通年灌漑]

 夏運河による通年灌漑は,単に運河を深く掘り下げて,低水位の水が流入するのを待つという受身で,幼稚な利水技術であった。やがて夏運河に積極的に水を送り込むくふうがなされるようになった。
 減水期の低い水位で少ない水量のナイル本流の流れを,夏運河の取水口の所でせき止め,水位を上げて流入させようと堰堤が築かれるようになったのである。最初の堰堤は,ナイル川がロゼッタ,ディムヤートの 2 支流に分岐するところに築かれたデルタ堰堤で, 1891 年より稼働した。増水期の水圧で崩壊しないように,堰堤には多数の水門がつけられ,増水期には開門して水を流し,減水期には閉門して水をせき止め,水位を上げるようにくふうされていた。デルタ地帯に延びる幹線夏運河への減水期の水の流入は,従来に比べ大量・高速となり,夏運河通年灌漑面積の拡大をもたらした。同様の堰堤が上流のアシュート,ナグ・ハマディ Naj ‘ ─am´d ̄やイスナー Isn´などにも築かれた。
 ヨーロッパ先進国の技術援助で構築された堰堤は,ナイル川の流れに初めて積極的に立ち向かう近代的な利水技術であった。しかし堰堤は減水期の水をせき止め,水位をわずか上げるだけで,大量に貯水する技術ではなかった。さらに積極的な治水・利水技術として,増水期の水を貯水し,減水期に放水するためにはダムが建設されなければならなかった。
 アスワン・ダムはこの目的で建造されたもので, 1897 年着工,1903 年に完工し,それ以後何回か拡張工事が施された。アスワン・ダムの貯水能力は 9 億 9000 万m3であり,利用可能なナイル川の水のまだ一部分を貯水しうるにすぎなかった。貯水量を飛躍的に高め,ナイル川の水を余すところなく利用する体制を目ざしたのがアスワン・ハイ・ダムであり,ナイル川の近代的通年灌漑体系の完成をもたらすものであった。
 アスワン・ハイ・ダムは多目的 (灌漑,洪水調節,発電) ダムで,1960 年ソ連の援助で着工され, 10 年の工期を要し 70 年に完工した。このダムによってできた大貯水池ナーセル湖 (1981 年ハイ・ダム湖と改められた) の貯水量は 1570 億m3と巨大である。増水期の水を大量に貯水し,減水期に放水して各地の堰堤で受けとめ,水位を上げて各幹線夏運河に送り込む体制が完成した。
 アスワン・ハイ・ダムによって,通年灌漑の拡大・改善がなされた。まずナイル上流地域にまだ残っていた約 294 万haのベースン灌漑地が通年灌漑地に転換された。それによって従来年 1 回の作付けしかできなかったところで 1 回以上の作付けが可能となり,耕地面積は同じでも作付け面積の大幅拡大がもたらされた。
 また,豊富な灌漑用水が利用できるようになり,約 42 万haもの耕地造成が見込まれ,エジプト全体の通年灌漑面積は約 25 %増となると期待されている。従来一応は通年灌漑化されていたところでも用水不足から十分な灌漑ができなかったような地域では,灌漑改善が実現し,土地生産性が高まると計画されている。
 しかし,アスワン・ハイ・ダムによって深刻な問題が生じていることも確かである。その一つに,ハイ・ダム湖底にすべてのシルトが沈殿し,この有用な肥料分がまったく耕地に供給されなくなってしまったことがある。エジプトの農業は今後ますます化学肥料などに頼る体質が強まると懸念されている。また,灌漑用水が増大したのに対し,排水設備が立ち後れていることから,灌漑過多となり,地下水位が上昇して塩害が深刻になっていることも問題点の一つである。アスワン・ハイ・ダムの完工によって,ナイル川の水は余すところなく利用される体制は完成したとはいえ,エジプト農業がかかえる問題のすべてが解決したわけではないのである。
 ナイル川の水を利用して農業開発を推進しているのはエジプトだけではない。スーダンでもナイル川の水の利用は盛んである。その代表的な例がゲジーラ農業開発地域である。青ナイルの上流センナールにダムを築き,灌漑用水を引いて,およそ 80 万haの農地で 9 万人の農民が開発に従事している。ここでのおもな作物は長繊維綿花で,穀物や油料作物,飼料作物も栽培されている。 ゲジーラ地域の農業生産はスーダンの GNP に対しておよそ 30 %も寄与しており,スーダン経済の中心になっている。
 スーダン南部の大沼沢地ではジョングレ運河計画が進行中である。この運河は沼沢地の水流を整え,白ナイルへの流水量を増加させ,全体としてナイル川の流量を増大させる遠大な利水プロジェクトである。
 スーダンには未利用の水資源をはじめ,豊富な農業資源が多い。アラブ諸国全体で資金や技術を拠出し合って,スーダンで農業開発を推進し,スーダンをアラブ全体の穀倉に育成しようとする壮大な 25 ヵ年計画もある。その成否はナイル川の水の利用にかかっている。
石田 進(平凡社世界大百科事典)
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[探検史]  ナイル川の肥沃な流域とその規則的な氾濫は古代エジプト文明誕生の基礎となった。エジプトに統一国家が生まれたのは前 3100 年ころで,ナイル川から地中海に至る 1200kmの流域が文明の舞台として 3000 年間にわたって栄えた。前 5 世紀のギリシアの史家ヘロドトスは〈エジプトはナイル賜物 (たまもの) 〉と記した。後期のエジプト文明はアスワンより上流のヌビアにもひろがり,前 7 世紀成立のメロエ王国はエジプト的要素とアフリカ的要素を複合した独自の文化を築いた。ナイルの水源について古代エジプト人は知識をもっていなかった後 1 世紀のギリシアの船乗りディオゲネスは,東アフリカ海岸から内陸部にはいり,ナイル川の水源が二つの湖であるとの情報をもたらした最初の人である。 2 世紀のアレクサンドリアの地理学者プトレマイオスはナイル水系図に二つの大湖を描いた。中世には,ナイル川,ニジェール川,コンゴ川,チャド湖は同一水系に属するものとみなされていた。 1615 年,ポルトガルの修道士ペドロ・パエスPedro Paez (1564‐1622) はエチオピアに赴き,青ナイルの水源タナ湖に達した。これを水源として確証したのはスコットランドの探検家ジェームズ・ブルースで 1770 年 10 月のことである。
  1820 年,エジプト総督ムハンマド・アリーはナイル水系調査隊を派遣し,隊は白ナイルと青ナイルの合流点ハルツームまでを調査した。さらに同総督は 1839 年から 42 年にかけて 3 回にわたって調査隊を派遣した。隊の達した最南地点はゴンドコロで,ビクトリア湖の下流約 500kmの地点であった。ナイル川をさかのぼるのではなしに,東アフリカ海岸から内陸に入るというコースを取ったのはイギリスの探検家R.F.バートンとスピークJohn Speke (1827‐64) である。彼らは 58 年 2 月タンガニーカ湖を発見した。そのあとバートンが病気で動けなくなったため,スピークがしばらく単独調査を進め,同年 7 月 30 日,白ナイルの水源ビクトリア湖を発見した。ただしその証明は不十分であったので,スピークは 60 年に再度のビクトリア湖探査に赴き, 61 年 7 月 21 日,湖水が北流して出る口を発見,水系の主要部をゴンドコロまでたどった。ビクトリア湖が白ナイルの水源であることを確定的に証明するのはイギリスの (一時はアメリカ国籍) 探検家H.スタンリーで, 1875 年のことである。
酒井 伝六(平凡社世界大百科事典)
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アブ・シンベル エジプト南部,アスワンより南へ約 280km,ナイル川西岸にある二つの岩窟神殿遺跡。 ラメセス 2 世がヌビア地方に造営した七つの神殿のうちの二つ。アスワン・ハイ・ダムの建設に伴う水没から救済するため, 1964‐68 年にユネスコにより移転された大神殿はラー・ハラクティ,アメン・ラー, プタハおよび神格化されたラメセス 2 世自身をまつり,東面して日の出を仰ぐ位置にある。高さ約 30m,幅 35mの正面に端然と座す四つの巨像は,いずれもラメセス 2 世 (高さ 21m)。足もとの立像は皇太后 (セティ 1 世妃) ムトヤ,王妃ネフェルタリ,皇太子アメンヒイコフシェフ等である。正面入口より入った大広間は 8 本の王のオシリス柱が向かい合って並び,有名なカデシュの戦の浮彫がある。つづいて 4 本の角柱のある第 2 広間に至る。ここは三つの扉をへて内陣,至聖所に通じている。至聖所にはラー・ハラクティ,アメン・ラー,プタハ,ラメセス 2 世の像が年に 2 度 (春分と秋分の日) だけ太陽の直射を受けるように安置され,王が生前に神格化されたことを証する浮彫で飾られている。小神殿はハトホルと王妃ネフェルタリに捧げられた岩窟神殿で,正面に高さ約 10mの王の 4 体の立像とハトホルをかたどった王妃の 2 体の立像が彫られている。
中山 伸一(平凡社世界大百科事典)
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アスワン Asw´n エジプト,アスワン州の州都で,エジプト最南の都市。 人口 22 万 (1992)。上エジプトの第 1 ノモス (州) であった古代には,町よりもナイル川の中にあるエレファンティン島の方が栄えており,現在町のある所はその市場 (スーク) としての役割を果たしていた。そのため当時はスークという意味のソウンSoun という名で呼ばれていた。アスワンは花コウ岩の採掘場として現代に至るまで有名で,オベリスクのような記念碑や神殿の石材もここから切り出された。ギリシア人はこの地をシュエネと呼んだので,アスワン産の花コウ岩はシエニートと名付けられた1902 年にはアスワン・ダム,71 年にはその約 7km南にアスワン・ハイ・ダムが建設されて上流にはナーセル湖ができ,下流でのナイル川のはんらんはなくなった。その時湖底に沈む古代遺跡の保存計画がユネスコを中心に進められ,大部分の遺跡が移築された。
(平凡社世界大百科事典)
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吉村 作治

ヌビア Nubia エジプト南部からスーダン北部にかけてのナイル川流域の地名。一般的にアスワンの第 1 急湍 (たん) から南の第 4 急湍付近までをさす。アラビア語ではヌーバN仝ba。黄金や木材の産地として,アフリカ奥地からの貢納品の中継地として,また多くの傭兵を徴用する地として,古代からエジプトにとって経済的にも軍事的にも重要な地域であった。下流のエジプト領の下ヌビア (古代名ワワト) と上流のスーダン領の上ヌビア (古代名クシュ。ギリシア人の呼称はアイティオピア) とに分けられる。アスワン・ハイ・ダムの建設により,下ヌビアの全域と上ヌビアの一部が水没してしまうため, 1960 年にユネスコが呼びかけたヌビア水没遺跡救済のキャンペーンに対し, 20 ヵ国以上が協力し,約 30 の調査隊が組織された。またアブ・シンベル神殿,カラブシャ神殿,フィラエ島イシス神殿など水没地の多くの遺構が移築された。
 この地には前期旧石器時代から連続して人類の活動の跡が見られる。新石器時代からエジプト初期王朝時代にかけての文化を A グループ文化と呼ぶ。エジプト古王国時代になると組織的な交易がおこなわれ,第 1 急湍南までエジプトの支配を受けた。前 2000 年頃エジプト文化の影響を受け, C グループ文化と呼ばれるヌビア独自の文化がおこった。エジプト中王国時代には第 2 急湍南までが,そして新王国時代には第 4 急湍までがエジプトの支配下に置かれ,各地に拠点として要塞が築かれた。前 8 世紀中頃,上ヌビアのナパタを中心とする勢力が,第 25 王朝を樹立し,一時的にエジプト全土を支配したが,アッシリアのエジプト征服により,再びヌビアに退いた。その後,中心を南のメロエに移し,4 世紀ころまでメロエ王国として繁栄し,その滅亡後 6 世紀まで下ヌビアを中心に, X グループと呼ばれる独自の文化が栄えた。 6 世紀にキリスト教が導入され,ビザンティン文化の強い影響を受けた優れたキリスト教文化が花開いた。
近藤 二郎(平凡社世界大百科事典)
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